恋しくて


 

 鹿(きょろく、注:現在の河北省)に庖阿(ほうあ)という人がいた。惚れ惚れするような美男子で、多くの娘から思いを寄せられていた。ただ、庖阿には妻がいた。それも飛びっきり嫉妬深い妻が。
 同じく鉅鹿に石という人が住んでいた。この人に娘がいたのだが、何かの折に庖阿の姿を垣間見て以来、恋に落ちてしまった。娘の身に奇怪なことが起こるようになったのは、それからまもなくのことであった。

 ある時、庖阿の家を若い娘が訪ねて来た。
「私、ご主人にお会いしに参りましたのよ」
 庖阿の妻は若い娘が夫を訪ねて来たと聞くと、眉をつり上げた。
「何だって?どこの小娘だい?厚かましくもうちの人に会いに来ただなんて」
 下女が石の娘だと答えると、
「いいかい、その小娘を縛り上げて家へ送り返しておやり。一歩もうちの敷居を跨がせるんじゃないよ」
 と命じた。下女が言いつけ通り娘を縛り上げたのだが、娘は少しも抵抗しなかった。娘は下女に連れられておとなしく帰路に就いた。しかし、石家の近くに来ると娘の姿は煙のようにかき消えてしまった。驚いた下女は石家へ様子を見に飛び込んだ。
「何だと!?うちの娘に限ってそんなはしたないことをするはずないではないか」
 下女から事の経緯を聞いた父親は激怒した。
「娘は今日はずっと家にいたぞ。嫁入り前の娘の評判を落とす気か?」
 と下女を叱り付けて追い返した。
 以来、庖阿の妻は常に夫の動向に目を光らせるようになった。ある夜、夫の書斎の前に張り込んでいると、石の娘が入って行くのを見かけた。逃がすものかと縄を片手に飛び込んで、いきなり殴り付けると縛り上げた。
「石の親父め、これで文句も付けられないでしょう」
 そのまま娘を引きずって、石家へ連れて行った。
 縛り上げられている娘を見て父親はびっくりした。
「今、奥から出てきたところだが、娘は女房と一緒に縫い物をしていたのに。一体、どいうことなんだ?」
 父親は下女に命じて奥へ娘を呼びにやらせた。何と奥から出てきたのは娘本人である。それと同時に縛られている方の娘の姿は煙のように消えてしまい、床の上に縄が一本残るだけであった。
 ひとまず庖阿の妻を帰らせてから、石夫婦は娘の身に起きた怪事について話し合った。
「これは、どう見ても尋常な話ではないぞ。二つの場所に同時に一人の人間が存在するなんて、魂が飛んで行ったとしか考えられないだろう。以前、書物で読んだことがある。心の病が原因でこういうことが起こるそうだ。あの時は信じていなかったが、今日こうして自分の目で見てしまうと一概に否定もできぬな」
「心の病ですか…」
 母親は少し考え込んでから呟いた。
「あの子、最近よくぼんやりしていることがあるんです。もしかしたら、今回のことと何か関係があるかもしれません。私からきいてみましょう」

「あれはいつだったかしら…、庖阿様がうちにいらした時ですわ。私、帳の陰からあの方のお姿を拝見したんです。美男子だって評判だったものですから…。まさか、あんなに綺麗なお方だとは思いもよりませんでした。それ以来、庖阿様のことばかり考えるようになってしまって…。もう一度、一目でいいからお会いしたい、そう思っていると目の前にあの方のお宅が見えてくるんです。念の入ったことに奥様までお出ましになりますわ、縄で私を縛り上げるんです。でも、全部気のせい、夢のようなものですわ。だって、我に返ると自分の部屋に坐っているんですもの」
 母の問いに対して娘はこう答えた。妻からこの話を聞いた石は、
「庖阿を想うあまり、魂が体を抜け出してしまったのか。あの子も因果な相手に思いを寄せてしまったものだ。いくら添い遂げさせてやりたくとも、相手には女房がいる。妾にしてもらうにしても、あんな嫉妬深い女房では無理だな…」
 と不思議がると同時に、娘の行く末を憐れんだ。
 その後もしばしば娘の魂は体を抜け出して、庖阿のもとを訪れていた。その度に、庖阿の妻が娘を縛り上げて、家へ送り返して来た。
 一年後、庖阿の妻がふとした病で身まかった。庖阿は妻の喪が明けるのを待って、石家へ結納を贈って娘を妻に迎えた。石家の娘の一途な想いに応えたのである。

(六朝『幽明録』)