紅葉良媒
―――― 唐 韓翠蘋(9世紀) ――――
唐の開元年間(713〜741)のことである。玄宗皇帝は北辺に駐屯する守備隊を労(ねぎら)うために綿入れの着物を支給することになった。皇帝の下賜品と言うことで、後宮の宮人達が仕立てた。宮人達のたおやかな手で仕立てられた綿入れは、北辺で寒さに震える兵士達の元に届けられた。一人の兵士が綿入れを手に取ってみると、脇の所か小さな綻(ほころ)びがあって糸がほつれていた。糸を引っ張ると縫い目がほどけ、中から一枚の薄紙が出てきた。そこには詩が書きつけられていた。
沙場征戍客 砂漠で守備につく旅人は兵士はこの詩を上官に提出した。詩は上官の手で都の帝のもとに送られた。この詩を読んだ帝は後宮に自ら赴き、詩を示して下問した。
寒苦若為眠 寒苦の中でどうして眠れましょう
戦袍経手作 私の手で作った戦袍は
知落阿誰辺 誰の手元に届くのでしょう
蓄意多添線 一針一針思いを込めて
含情更着綿 思いを託して綿を入れましょう
今生已過也 今生はもう終わり
結取後身縁 来世の縁を結びたいもの
「この詩を詠んだ者は速やかに進み出るよう。朕は罰しようというのではない」
すると、一人の宮人が進み出た。
「私の罪は万死に値します」
帝は詩を通じてこの宮人の心情をよく理解していた。そこで、この宮人を北辺へ遣わすことにした。
しばらく経って、詩を手に入れた兵士の元を一人の女が訪れた。女は兵士に言った。
「あなたと今生のご縁を結ぶことができました」
帝のはからいに、北辺の人々は皆感動した。天子の後宮では三千人の美女が妍(けん)を競うという。こう書くと天女の如き美女達が群れ集う地上の極楽のような世界を想像する。しかし、現実には地獄も同然であった。宮人の多くは天子の目に留まるどころか、天子の顔を間近で拝することもないまま、いたずらに春秋を重ねていくのである。一体どれだけの宮女達が朽ち果てていったことか。後宮とは生きながら葬られた宮人達の怨嗟(えんさ)の声が渦巻くところだったのである。
同じく唐の僖宗(きそう)皇帝の御世(873〜888)のある秋の朝のことである。皇城の裏手の堀端を一人の書生が散策していた。この書生、名を干祐(かんゆう)という。科挙を受けるために長安に上ってきていた。城壁の下に穿たれた半月型のアーチの向こうは皇城内の庭園であった。このアーチを通って庭園の水が堀に流れ出ていた。アーチの向こうには錦を敷きつめたような紅葉や菊花、築山が水面に映って見えた。この庭園はおそらく後宮のものであろう。干祐はふと後宮の宮人達の身の上に思いをはせた。一体、この城壁の向こうにはどれだけの美女達が、閉じ込められているのであろう。そう思うと、この堀の水も何だか芳しいもののように思われる。
堀端になってずっと水を眺めていると、他の葉よりも一際大きな一枚の紅葉が流れてくるのが目に入った。しかも何か墨の色が見える。拾ってみると、優美な女の手蹟(て)で詩が書いてあった。流水何太急 流れる水は何を急いでるのでしょう祐は何か宝物を拾ったような気になり、何度も吟唱した。そのまま思いをこらして半月型のアーチを見つめていたのだが、近くの楓(かえで)の林に赴き、一枚の紅くなりかけた葉を拾った。それに筆で詩を一首書きつけた。
深宮盡日間 奥深い宮居で過ごす日々
慇懃謝紅葉 思いを込めて紅葉に別れを告げる
好去到人間 人の世に到りやすきを曾聞葉上紅怨題 紅葉に怨みを書いたと聞いてますそして、皇城に流れ込む堀の流れを辿って上流に行くと、その葉をそっと水に浮かべた。葉は水の上を漂いながら皇城の内へと吸い込まれていった。
葉上題詩寄与誰? 葉に記した詩は誰に寄せるものでしょう?
それからしばらく経った。僖宗は宮廷費の節約のために、後宮の宮人を民間に降して結婚させるという詔(みことのり)を下した。その時、祐は科挙に落第して長安に残っていた。彼は三十歳近くになりながら、まだ独身だった。祐はふと、宮人ならばあの紅葉の主を知っているかもと思い、知人のつてを頼って話をまとめてもらうことにした。知人は韓翠蘋(かんすいひん)という宮人との縁談をまとめてくれた。
婚礼の夜、新婦と二人きりになった祐はあの紅葉を取り出した。この紅葉の主を知っていないか、と問うつもりだったのである。その時、新婦も一枚の楓の葉を取り出した。それには祐の詩が書きつけられていた。
この話を聞いた者は皆、紅葉の取り持つ縁の不思議に感嘆したという。