二郎神君の靴(二)


 

 夫人の病状は前よりも深刻なものとなった。侍女の知らせを聞いて駆け付けた太尉夫人が見れば、韓夫人は頬を紅潮させていかにも苦しそうである。太尉夫人がその手を握ると、ジットリと冷たく汗ばんでいた。
「お可哀相に、このようになられて。やはり、まだよくおなりになっていなかったのですね。幸い、陛下にはお戻りになることを申し上げておりません。ここでゆっくりご静養なさいませ。宮中にお戻りになるのはずっと先のこととして、あまりお気になされませんように」
 すると、韓夫人は苦しい息の下で涙を浮かべ、
「お気遣いありがとうございます。私の病は思ったより重いみたいですわ。目を閉じると、あの世が見えるような気がいたしますもの。ただ心残りはこれだけのご恩を受けながら、今生でお報いできないことですわ。もし、人が死んでも前世の記憶を失わないのなら、きっと来世でお報いいたします」
 と言ってすすり泣いた。その姿のあまりの痛々しさに、太尉夫人も涙を誘われた。
「そのようなことおっしゃらないで下さいませ。昔から善人には天のご加護があって、その前からは悪運の星さえも退散すると申します。ですから、お気をお強く持って下さい。お薬の効き目が見られないからといって、ご自身を苛(さいな)まれる必要はありません」
 そう言って慰めたのであった。その時、太尉夫人が思い出したように言った。
「もしや、宮中にいらした時分にでも何か願掛けをなさって、その願解きをお忘れになっていらっしゃるのではありませんか?それを神様がお咎めになってらっしゃるのかもしれませんわ」
「私は入宮してからこのかた、毎日鬱々として願掛けをする気になどなれませんでした。それがいけなかったのかもしれません。霊験(れいげん)あらたかな神様がいらっしゃるのなら、私、願掛けをいたしとうございます。万が一、本復のみぎりにはきっとお礼参りをいたしましょう」
「ならばこの近くに北極佑聖真君と清源妙道二郎神君の神廟がございます。どちらも霊験あらたかな神様ですから、きっとご利益がありますわ。早速、香机を用意して、心から病気平癒をご祈願なさいませ。ご本復あそばした時には、私もお礼参りにお供いたしますから」
 韓夫人はうなずくと、侍女を呼んで香机を運ばせた。いざ、身を起こそうとしたが、力が入らず起き上がれない。そこで横になったまま額に手をあてて祈った。
「私、韓氏は早くより宮中に仕える身となりましたが、一度として天子のご寵愛を受けることなくまいりました。その気鬱が昂じて病に臥せる身と成り果て、楊邸にて病を養っております。もし神霊のご加護を得て元の体に戻ることができましたならば、縫い取りを施した幟(のぼり)を二本奉納し、お供物もして、お礼参りに伺います」
 起き上がれない韓夫人の代わりに太尉夫人が跪いて香を焚き、天に祈った。祈願を終えると、韓夫人を悩ませていた頭痛は嘘のように楽になった。
 韓夫人の病は心のモヤモヤを発散できなかったことから起きたもの。こうして悩みを口に出してみると、すっと気分が楽になった。おかげで韓夫人の病は日に日に快方に向かい、一月も経たない内にほとんど治ってしまった。大いに喜んだ太尉夫人は韓夫人の快気祝いの酒席を設けた。
「申し上げた通りでございましょう?神様の霊験あらたかなこと、お薬よりも効き目がございました。お約束なさいましたお品、お忘れになられませんように」
 韓夫人は晴々とした顔で言った。
「どうして忘れましょう。幟の方はすぐに用意できますわ。お礼参りにはご一緒して下さいますわね」
「もちろんご一緒させていただきますわ」
 数日の内に韓夫人はいくばくかの金子を払って、豪華な縫い取りの幟四本と供物を急ぎ買い整えた。これこそ諺(ことわざ)にもあるように、
「火さえあれば豚の頭もよく煮える、金さえあればお上の仕事もうまくいく(火到猪頭爛、銭到公事辧)」
 というもので、この世は金の力さえあれば神霊の加護すら勝ち取ることができるのである。
 用意万端整い、韓夫人は楊太尉夫妻とともに吉日を選んでお礼参りに繰り出した。その行列の美々しいこと。まず、一行は北極佑聖真君の神廟に詣でた。廟官が香を焚いて祭文を読み上げるのに合わせて、居並ぶ道士達が一斉に祈祷を上げた。韓夫人は祭壇の前に額ずいて礼拝を捧げてから、用意した二本の幟と供物を奉納した。その後は廟官の案内で廟内を見物したり、茶菓のもてなしを受けたりしてから邸に戻った。
 翌日は二郎神君の神廟へ詣でた。一行が廟に着くと北極佑聖真君の時と同じように廟官と道士達が居並んで出迎えた。拝殿に案内され、前日同様に礼拝を済ませた。茶菓のもてなしを受ける段になって、太尉とその夫人は従者に何やら指図しに行ったため、拝殿には韓夫人一人が残された。韓夫人は周りに誰もいないのを幸い、祭壇に歩み寄った。祭壇には金糸で縫い取りを施した薄絹の帳(とばり)が垂らされていた。礼拝の時に廟官が帳を掲げたのであるが、韓夫人はずっと額ずいていたため神像を見ることができなかった。そこでこっそり神像を見てやろうと思ったのである。
 韓夫人は玉を刻んだような指で帳の裾をつまんだ。そのままそっと持ち上げると、下から覗き込んだ。まず最初に鳳凰の模様のついた黒い靴が目に入った。そのまま視線を上に移していくと、紅い刺繍のある長衣に玉を散りばめた帯、そして…。
「あっ!」
 神像を見上げた韓夫人は思わず、息を呑んだ。

 

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