きつね、狐


 

「ひゃあ、ひどい目に遭いました」

「お前、夜明けに出たきりで、日暮れになっても戻ってこないから皆、心配していたぞ。客人に酒を出そうにも肝心のお前が戻ってこなければどうにもならぬではないか」
「申し訳ありません、旦那様。実は悪戯(いたずら)狐に付きまとわれてつっ転ばされましてな、おかげでこんなザマでさあ」
「おや、足をどうしたんだい?引きずってるね」
「あの櫟(くぬぎ)林、狐が出るとは聞いておりましたが、本当に出るとは…」
「まさか、一人で林に入ったんじゃないだろうね?」
「そのまさかです。近道をしようと思いまして」
「とんだ冒険だな」
「ちょうど、林を抜ける頃ですか、狐のヤツめ、女に化けていきなり追いかけて参りましたのじゃ。もう、恐ろしくなって、老体に鞭打って駆けに駆けましたわ。ところが、狐の足の速いこと。すぐに追いつかれ、無様にも転げてしまいました。しかし、ワシも年こそ取りましたが、狐なんぞに負けてなぞおりません。急いで立ち上がって、狐めをぶん殴ってやりましたわ。すると狐のヤツはか細い女の声で、許しを乞いますのじゃ。
『お狐サマ、堪忍して下さい、お狐サマ、ご堪忍を』
 と、こうですじゃ。ははん、女狐め、ワシのことを別の狐と思い込んでるな、と合点が行きまして、こちらを人間と気づかないのつけ込んでぶちのめしてやったわけですわい」「で、狐は正体を現したのかね」
「図太い奴でして、こちらの同情をひくつもりか女の姿で泣いておりましたわ」
「おいおい、お前、まさかよその人を狐と間違えたんじゃなかろうね?」
「旦那様、まさか?…でも、そう言えば最後まで尻尾を出しませなんだ」
「これはお前の勘違いなのかもしれんぞ。お前が狐と思い込んだ相手はおっつけここにやってくるはずだ。ここはひとまず奥に引っ込んでいなさい」

「私、ひどい目に遭いました」
「娘さん、どうなされた?髪はクシャクシャで、おまけにあざだらけではありませんか」
「そこの櫟(くぬぎ)林、狐が出るとは聞いておりましたが、本当だったとは…」
「まさか、一人で林に入ったんじゃないんでしょうね?」
「そのまさかです。帰り道を急いでおりましたので」
「勇ましいことですな」
「ちょうど林を抜けた頃、年老いた狐に出会いました。まさか狐だなんて思わなかったもので、連れができたと喜んで駆け寄ったら、相手もいきなり駆け出しました。一人取り残されてはと必死に追いかけると、狐のヤツ、突然転げて死んだ振りをしたんです。心配になって近寄ると、性悪狐のやつ、今度は飛び起きて私に殴りかかってきました。こちらが命乞いをしても殴る手を止めず、どうなることかと思っていたら、老いぼれ狐め、息があがったのか行ってしまい、おかげで命拾いをしたわけです。…あら?どうなさいました、顔色がお悪いようですが…」
「いえ、何でもありません。落ち着かれたら、すぐに帰られた方がよろしいでしょう。また、悪い狐に化かされては大変ですから」

(唐『紀聞』)