松江綿布の母

 

―――― 元 黄道婆(13世紀) ――――

 

海の西に松江という街がある。この地で生産される綿布は良質なことで知られ、明清時代を通じて中国国内で支配的な地位を占めていた。また、海外にも輸出され、「南京木綿」の名で欧米に知られた。
 松江で綿織物業が開始されたのは元代のことであったが、その背景には一人の女性の尽力があった。

 松江の東に烏泥(うでいけい)というところがあった。土地が痩せていて農耕に適さず、民は常に貧困にあえいでいた。彼等は食べるために木綿栽培と紡織を行って生活の足しにすることを考えついた。
 当時、木綿の栽培と採取した綿花から布を織ることは東南アジアから広西、広東、福建に広まり、徐々に揚子江流域にも及び始めていた。烏泥の民もそれに倣って木綿を植え、紡績を行ったのだが、技術もなければ機器もなく全て手作業のため、手間ばかりで利益は少なかった。依然、貧困に苦しむ彼等の前に救世主として現れたのが黄道婆(こうどうば)である。
 黄道婆、または黄婆と呼ばれるこの女性は、はるか彼方の海南島の崖州(がいしゅう)からやって来た。もとは烏泥の生まれであったという。彼女が海南島へと流れていくことになったのも貧困ゆえであった。幼少の折に他家の童養[女息](どうようそく、注:幼児のうちに買い取り、成人した後にその家の息子の妻となるもの)となったが、虐待に耐えかねて逃亡して一艘の大きな船に身を隠した。その船が海南島へ行くものだったのである。
 海南島は現在でこそ経済特区であり、リゾート地としての開発が進んでいるが、当時は黎(れい)族等の異民族が住まいし、罪を犯して追放された官吏が流刑に処される僻地(へきち)であった。かの文豪蘇東坡が流されたのもこの地であった。
 中国本土から「天涯海角」、つまり天の果て、海の外れ、とみなされたこの地は青い空と海、白い砂浜に山の緑という大自然に恵まれた地でもあった。この豊かな自然は古くから居住する黎族の生活に鮮やかな色彩をもたらした。焼畑農業や漁業などの自然に依存した素朴な生活を営む黎族であったが、紡織に関しては卓越した技術を有していた。
 インドや東南アジアに近いため、その進んだ技術と機器が早期に導入されたのであろう。中国本土よりも進んだ紡織機器と大自然から得たインスピレーションをもとに黎族婦女子の細い指は奇花異草や飛禽走獣などの複雑な模様を見事に織り上げた。そのため、海南島は宋代には綿織物の産地として知られていた。
 海南島の住人となった黄道婆は色鮮やかな綿布に魅了された。綿花の栽培法、綿繰器(わたくりき)を使って種子を取り除く方法、弓ではじいて綿を打ちほぐし、染めた綿糸で色鮮やかな模様を織り出すことなど、はじめて目にすることばかりであった。崖州滞在中に黄道婆はこの技術を貪欲に吸収していった。
 貧しさゆえに故郷を捨てた彼女ではあったが、故郷への思いを捨てたわけではなかった。元の元貞年間(1295〜1297)、老年に達した黄道婆は故郷の烏泥の地を再び踏んだ。彼女は海南島の進んだ紡織の技術と機器の製造法を故郷の人々に伝授した。
 また、彼女は機器の改良にも取り組み、この地域の綿織物業は飛躍的に進歩した。染めた綿糸で美しい模様を織り出すことも教えたため、綿布の商業価値が上がった。ようやく烏泥の人々は長年の貧困から抜け出すことができるようになったのである。
 伝授後まもなくして黄道婆は世を去った。これに恩義を感じた人々はその功績をたたえて多くの廟が建てられた。

 彼女の尽力のおかげで烏泥を含む松江地方は明清を通じて綿織物の一大産地となった。生産された綿布は中国全土に出回り、それまで零細農家の補助的産業であった綿織物業は専業となり、商業資本の萌芽を促進した。アヘン戦争を経て安価な輸入綿布が流入した後も、松江における綿織物業の地位は19世紀末に至るまで不動のものであった。