付け文騒動(一)


 

 平を謳歌する大宋の都、東京開封府(とうけいかいほうふ、注:現在の河南省)で奇妙な訴訟事件が起こった。宮中に仕える青年官吏、皇甫松(こうほしょう)が自分の奥方を不義密通の容疑で訴えたのである。事件の発端は一通の手紙であった。

 その日、皇甫松は椅子に坐って午後の陽射しの中、うつらうつらしていた。つい先日まで彼は官服の手配のため宮中に三ヶ月間、詰めきりで、ようやく休暇を取って帰宅したばかりだった。留守中、家族には何の変わりもなかったようで、彼は安心した。もっとも、家族といっても七年前に娶った妻の楊氏と下女見習いの十三才の迎児の二人しかいなかったのだが。
 ようやくうたた寝から目を覚ました皇甫松は、先程から一人の少年が門に垂らした簾の隙間からこちらの様子を伺っているのに気付いた。皇甫松がぎろりと睨むと、少年は慌てて顔を引っ込めた。不審に思った皇甫松は怒鳴りつけた。
「おい、坊主!」
 そのよく通る声は辺りの空気を震わせた。皇甫松は怒鳴ると同時に、二歩のところを一歩にして飛び出した。そして、少年の肩をむんずと掴んで引き戻した。宮中勤務でほとんど家にいない皇甫松は知らなかったが、それはこの界隈でワンタンを売り歩く僧児という少年であった。
「どうして人の家を覗く?どうして俺を見て逃げるんだ?」
「ある人から奥様にある物を渡すように言われたんです」
「何だ、それは?」
「旦那様にはお答えできません。奥様に直接、渡すよう言われたんです」
「何だと?俺はここの主人だぞ、俺に見せられない物か?」
「知りません。ただ、旦那様には絶対に渡すなと言われました」
 気の短い皇甫松は僧児の坊主頭に拳骨を一発食らわした。真っ昼間にもかかわらず、僧児の目の前に綺麗な星が散った。
「これでも見せられないのか?」
 僧児は懐から紙包みを取り出した。しかし、口では尚もぶつぶつ言っていた。
「奥様に渡せと言われたのに…、旦那様には絶対、渡すなと言われたのに」
 皇甫松はそんなことにはお構いなく、紙包みをひったくってビリビリと破った。
 中から出てきたのは金の耳飾りが一対と金の釵(かんざし)が二本、それと一通の封書であった。封書を見つけた皇甫松は何やら嫌な予感がしてきて居ても立ってもいられなくなった。はやる気持ちで封を開けて文面を一読した途端、皇甫松の手はブルブルと震え出した。彼の眉はみるみる釣り上がり、口惜しそうに歯噛みし始めた。
「おい、小僧!誰がお前にこの手紙を届けるよう頼んだんだ?」
 皇甫松は僧児の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。僧児は路地の入り口にある王二の茶店を指した。
 僧児がしぶしぶながら話したところによると、彼に手紙を届けるように頼んだのは濃い眉毛に大きな目、上に向いた鼻、大きな口をした背が高く身なりの立派な男だったとのことであった。皇甫松は僧児の腕を掴むと、そのまま王二の茶店へと引きずって行った。皇甫松はぐるりと店内を見回したが、僧児の言うような男の姿は見当たらなかった。僧児は泣きながら言った。
「さっきここで腹ごしらえをしていた人が、あの包みを奥様に渡すように言ったんだ。旦那に渡したら、おいらが殴られるからだったんだ」
 茶店の主人の王二が出てきて説明したが、皇甫松はそれを聞こうともせず、僧児の手を引いて戻ると、縛り上げて一室に閉じ込めた。僧児が泣き叫ぼうがどうしようがお構いなしであった。
 皇甫松は椅子に坐ると、怒りに震えながら夫人の楊氏を呼びつけた。
「まあ、まあ、一体、何の騒ぎでしょう?」
 涼やかな声に続いて、華やいだ空気が流れ込んだ。楊氏である。楊氏は今年二十四才になる容姿、教養共に申し分のない女性であった。特にその美貌は見る人を引き付けてやまなかった。彼女は聡明な女性であったので、夫の様子と僧児の泣き声で尋常ならざることが起きたことを知った。てっきり僧児が何か粗相をしたとばかりに見当をつけた彼女は早速、夫の気持ちを和らげようとした。
「あの子が何をしたかは知りませんが…」
 楊氏は笑みを浮かべながら、夫の肩に手をかけた。夫は優しい妻の手を払いのけた。
「おい、そこへ坐れ!」
 皇甫松は夫人を睨み付けた。彼のこめかみには青筋が浮かび、息づかいも荒々しかった。こういう時はおとなしく言うことをきくに限る。そう悟った夫人は優雅に椅子に腰を下ろした。
「これを見ろ!」
 皇甫松は僧児から取り上げた紙包みを夫人に突き付けた。夫人は包みを受け取ると、開いた。中から出てきたのは一対の金の耳飾りと二本の金釵、それに手紙が一通であった。
「手紙を読むんだ!」
 皇甫松は怒鳴った。文面を読んだ夫人はクスッと吹き出した。

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