愛の妙薬(後編)


 

 「奥様は朝早く、お出かけになられました」
 と小間使いが答えた。
「どこへ?」
「お隣でございます。お招きを受けられたとのことです」
「隣か、もう下がってよい」
 小間使いは一礼して下がっていった。
 最近、洪は機嫌が悪い。この二ヶ月、不審なことばかりである。妾のことであんなにネチネチと嫌味を言っていた朱氏が、いきなり賢夫人になってしまった。突然物分かりが良くなった。突然妾を大事にし始めた。何よりも突然俺によそよそしくなってしまった。いがみ合っていた頃は、たまに部屋に行くと口ではブツブツ言いながらも内心嬉しそうだった。それが、今では部屋に寄せ付けようともしない。一つ家に住みながらろくすっぽ口も利かなきゃ、顔も合わさない。その上、この一ヶ月というもの身なり一つ構わなくなってしまった。何かおかしい…。
「旦那様、お酒でもお付けいたしましょうか?」
 妾の宝帯である。この女にほんの出来心で手を付けて妾に入れてからだ、夫婦仲が険悪になったのは。大した器量というわけではない。いつも美人の細君を相手にしているから、普通の女に食指が動いただけである。そりゃ、初めは少しは可愛いと思った。女房に後ろめたさを感じながら…と言うのに刺激もあった。しかし、半年も経つと飽きて来た。今でも妾として置いているのは半分は細君への当てつけである。あれだけ嫌味を言われれば、何をこのアマ、ってことになってしまう。思えば、あれも嫁いできたばかりの頃は可愛かったなあ…。
「旦那様?」
「ん…いや」
 宝帯は怪訝(けげん)な面持ちである。その時、
「奥様のお戻りです」
 朱氏が入ってきた。昨日までの薄汚れた姿とは打って変わって、まるで仙女のような艶やかさ。元々器量の良いのは事実である。しかし、久方ぶりに見ると、三割も四割も女っぷりが良くなっているようだ。しばらく会っていない恋人の姿を久しぶりに見たような気分である。洪は阿呆のようにボ〜ッと朱氏の姿に見入っていた。
「で、出かけていたのか」
「ええ、狄さんの奥様の所へ。お庭見物を致しましたの。少し疲れましたので、もう下がって休みますわ」
 朱氏は小さくあくびをすると、いかにも気だるいといった様子で自室に戻り、戸を締め切って寝てしまった。その後ろ姿を見送っていた洪は気を取り直すと後を追い、何か言いながら盛んに戸を叩いたが、如何せん、朱氏が知らん振りを決め込んでいるので、扉が開くはずもない。諦めて戻るしかなかった。次の晩も同様であった。翌日、洪は朱氏を責めて言った。
「どうして亭主の俺を中に入れないんだ?」
「おかげさまで今まで一人でゆっくり寝る癖が付いてしまったの。騒々しいのは真っ平ごめんだわ」
 朱氏はしゃあしゃあと答えた。
 一計を案じた洪は翌日のまだ明るい内に、朱氏の部屋に入り込んで待ち構えることにした。朱氏は洪の姿を認めると、一言、
「しょうがないわね」
 と言っただけだった。洪は灯りを消して寝台に上がると、まるで新婚初夜の花嫁を扱うかのように朱氏に丁重に接した。帰り際に洪は明日も来るから、と念を押すと朱氏は首を横に振った。
「あら、だめよ。そんな毎日来られたら、こちらの体が持たないわ。なぜって、今まで長い間一人だったんですもの。そうね、三日に一度くらいいらして下さればちょうどいいわ」

 半月後、朱氏は恒娘を訪ねた。恒娘は朱氏を寝室へ招き入れると戸を閉ざして言った。
「さあ、もう九割方成功よ。それにしてもあなたの旦那様ってかなり単純ね。ただね、あなた、素が美人なのに色気がなさすぎるのよね。殿方ってものはね、色気のない美人より色気のある十人並みの方を好むものよ。今日はしな作りの練習をしましょう」
 恒娘は流し目やら、微笑やら、ありとあらゆるしなを自ら手本を示して伝授した。朱氏も一生懸命真似をして、何とかさまになるようになった。
「あとは実践あるのみ。鏡相手の練習も忘れないで。お閨(ねや)のことは、夫婦それぞれだからお教えすることはないわね。今までの旦那様の好みはあなたがご存知でしょ。健闘あるのみ。頑張って」
 朱氏は戻ってから、一々恒娘の教えの通りにした。妻に今までにない色気を発見した洪の喜ぶまいことか。もう、有頂天である。ただただ嫌われはすまいかと、必死に妻のご機嫌を取ろうとする。そうこうする内に夫婦仲は昔のような熱愛状態に戻っていた。
 夫の愛を取り戻した朱氏はますます宝帯を大事にするようになった。考えてみれば、宝帯も被害者である。同じ女として同情の念をかき立てられた。夫婦で宴を催す時には必ず、宝帯を呼んだ。
 しかし、男とは勝手なものである。妻との関係が修復すると、洪には宝帯がますます見劣りがするようになった。宴の席からも追い立てた。朱氏がある時、洪をだまして宝帯の部屋に閉じ込めたが、結局手を付けずじまいであった。宝帯はだんだん洪を怨み、なり振り構わなくなり、酒浸りになってしまった。

 幾年かが過ぎた。洪と朱氏夫婦の仲睦まじさは相変わらずであった。
 恒娘が突然朱氏に言った。
「あなたとは実の姉妹以上に仲良くしてきたから、隠し事なんてしちゃあダメね。実はね、思い切って言うけど、私人間じゃないのよ。狐なの。子供の頃に継母に人間の子として売り飛ばされたの。買ってくれたのが、今の主人なのよ。逃げることもできたんだけど、幸い主人が優しくしてくれたものだから、情にほだされて今日までズルズル一緒に生活してきちゃったの。明日、私の年老いた父が長年修行を積んだお蔭で仙人になれるのよ。狐だから胡仙ね。私はその見送りに行きます。そのまま戻ってこないつもりよ。じゃあ、さようなら」
 朱氏は恒娘の手を取ると別れを惜しんだ。
 翌朝、狄の家は大騒ぎになっていた。何でも奥様が急に消えてしまった、とのことであった。

 さて、読者諸君、この狐の手管、一度お試しになっては如何でしょうか。

(清『聊斎志異』)

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