破鏡


 

 (注:南朝最後の王朝。557〜589)の人、徐徳言は風貌才徳共に優れ、楽昌公主を妻としていた。楽昌公主は陳の後主(注:末代皇帝)陳叔宝の妹であった。美しいだけでなく教養豊かで、夫婦仲は頗る睦まじかった。しかし、徳言夫婦の蜜月は長続きしなかった。当時の情勢が許さなかったのである。
 北方では北周の外戚であった楊堅が新王朝隋を打ち立て、文帝として即位していた。文帝は内政の拡充に努め、着々と南北統一の準備を進めていた。徳言が太子舎人(注:皇太子の侍従官)に任じられたのはこのような時期であった。
 後主の第七年(588)十月、隋の五十一万八千の大軍が怒涛の勢いで陳の都建康(注:現在の南京)を目指して南下した。翌年の正月に、隋軍は建康に迫った。陳軍には抵抗する力はなく、城内は混乱に陥った。その混乱の最中、徳言は楽昌公主に言った。
「お前ほどの美貌の持ち主だ、国が滅んだらきっと人の物になってしまうだろう。離れ離れになっても私のことを思ってくれるならばいつか会おう」
 そして、公主が日頃愛用している鏡を真っ二つに割ると、一枚を公主に渡した。
「鏡が一枚になる時が、私達の再会の時だ」
 公主は涙を流して言った。
「いつの日か、そう、正月の十五日になったら、この鏡を市場に売りに出しますわ。それが私のいる証です。必ず会いに来て下さい」
 夫婦は手を取り合って泣いた。それから公主は混乱を避けるべく宮中に入り、徳言は事後処理のために職場へ戻った。建康が陥落したのはその直後であった。
 三月に後主と皇族達は長安へ護送された。楽昌公主もその中にいた。越石公楊素が公主の美貌に目を止め、側室として邸に引き取った。楊素の寵愛は並々ならぬもので、公主は建康にいた時と同様何不自由のない生活を取り戻した。しかし、公主は常に憂愁に包まれていた。
 一方、徳言は建康陥落後、陳の皇族達が長安に護送されたと聞いて、その後を追った。道中物乞いをしながら、ようやく長安に辿り着いた。
 約束の正月十五日に市場に赴くと、一人の男が鏡の破片を売っているのを見かけた。あまりにも法外な売り値だったので誰一人買う者はいなかった。徳言はこの男を宿に連れ帰ると食事を与え、今までの経緯を話して聞かせた。そして、自分の持っている鏡の破片を取り出して男の売っていた分と合わせてみた。鏡はピッタリと合わさり一枚となった。
 徳言は詩をしたためると男に預けた。男は徳言の詩を楽昌公主に渡した。詩を読んだ公主は悲痛な叫びを上げ、一切の飲食を断った。詩は楊素の手に渡った。詩にはこう書かれていた。

   鏡與人倶去 鏡と一緒にあの女は行ってしまった
   鏡帰人不帰 鏡は帰ってきたのに、あの女は戻らない
   無復嫦娥影 嫦娥(注:月の女神)のようなあの女の姿はもうない
   空留明月輝 空しく月の輝きだけが残っている

 楊素は愕然とした。楽昌公主に夫がいたことを知らなかったのである。楊素は急いで徳言を呼び寄せた。
 徳言は不安な面持ちで楊素の邸に赴いた。あの詩が楊素の手に渡り、寵姫に言い寄った咎で処罰されると思ったのである。意外にも徳言が通されたのは客間であった。しばらく待たされた後、楊素が姿を現した。
「ワシはもう少しで取り返しのつかぬ事をするところであった」
 楊素はそう言って、恐縮して跪く徳言を手ずから立たせた。
「夫婦の縁を断ち切るなど誰にも許されぬことだ。そなたのご妻女、お返しいたそう。夫婦の縁、全うなされよ」
 楊素の命で連れて来られたのは、徳言が一日として忘れられなかった楽昌公主であった。再会を喜び合う二人に楊素は厚く贈り物をして江南へ送り出した。

 当時の人々は皆、楊素の度量の大きさを称賛した。

(唐『本事詩』)