青蝗


 

 の孝武帝の時(372〜396)のことである。徐という人が中書侍郎(注:宮中の文書や詔勅を扱う省の次官)の官に就いた。この中書侍郎という役職は当番で宿直をしなければならないのだが、徐がこの職に就いてから奇怪な噂が流れるようになった。徐が一人で宿直をしているはずの部屋から話し声が聞こえてくるというのである。中にはそれが女の声だと言う者まで現れた。宿直中に他人を役所に入れるのはご法度である。ましてや女となると大問題であった。それに徐のもとを訪れる人物を見たものもいない。となると、徐がおかしくなって一人でブツブツ言っている可能性も出てくる。そこで、古くからの門下生の一人が事の真偽を確かめることになった。

 徐の宿直日にあたる夕方、門下生は偶然を装って徐のもとを訪ねた。部屋を見回しても誰も隠れている気配はなかった。徐とよもやま話をしている内に月が昇った。月明りを入れるために窓を開けたその時、何やら屏風の後ろから飛び出してくるのを門下生は眼の隅に捕らえた。
 それはそのまま窓辺に置かれた鉄の鼎(かなえ)の中に飛び込んだ。この鼎には菖蒲が植えられていた。門下生が菖蒲の根方を調べると、一匹の大きな蝗虫(バッタ)が止まっていた。他には何も見つけることはできなかった。門下生も初めはこの蝗虫が何か悪さを仕掛けているのかもしれぬと疑ったが、蝗虫が化けて出た話はついぞ聞いたことがなかったので、とりあえず翅(はね)をむしり取ってから放した。何も見つけることの出来なかった門下生はそのまま帰って行った。

 翌朝、宿直から戻った徐を門下生が訪ねた。徐は門下生の姿を見るなり詰って言った。
「おぬしは師の恋路を邪魔する気か?」
 訳の分からない門下生が理由を問うと徐は、
「実はな、宿直を始めてすぐのことだが、窓を開けて涼んでいた時のことだ。娘が一人、庭に佇んでいた。袖の広い青い着物を纏っていた。まだ双鬟(そうかん)を結い上げている少女なのだが、これがとびきりの美形なんだ。ダメで元々で誘ってみたら、何とこちらに来るじゃないか。で、なるようになったというわけだ。ほんとに可愛い娘でな、恥ずかしながら心底愛しいと思うた。しかし、どこの娘なのか皆目見当がつかぬのじゃ。そうしたら、夕べは珍しく来なかった。それだけじゃなく、夢枕に娘が立ってお前のために往来が絶たれた、すぐ側にいるのに山河に隔てられているのも同然だなどと言って泣くのだ。娘の着物は袖がもげていて白い腕がむき出しになっておった。さあ、申せ、お前、娘に何をした?」
 掴みかからんばかりの勢いである。そこで、門下生が翅をむしり取った蝗虫のことを話した。
「何と、あの娘は蝗虫の化身だと申すのか」
 愕然とした表情で徐は言った。

 次の宿直の日、徐が窓辺にある鼎の菖蒲の根方を調べると、果して翅をむしり取られた大きな蝗虫が一匹いた。徐はつまみあげて踏みつぶそうとしたが、大きくため息を吐くとまた根方に放してやった。

(六朝『続異記』)