任氏(後編)


 

 が家に帰って間もなく韋が訪ねて来た。
「昨日は一体どうしたんだ。飲み屋でずっと待ちぼうけさせられたぞ」
 となじった。鄭はひたすら謝って、任氏のことには一言も触れなかった。ただ、任氏の艶やかな姿が思い起こされ、何とかもう一度会えないものかと片時も忘れることはなかった。

 それから十日あまり経った時のことである。鄭が西の市場をブラブラしていると、衣装屋の店先で任氏らしい姿が目に留まった。二人の侍女も一緒だった。あわてて声をかけたのだが、任氏はサッと身を翻して人込みの中に消えようとした。鄭がその名を呼び続けながら追いかけて袖を捉えると、任氏は手にした扇で顔を隠して、
「もう私の正体はご存知でしょう?どうして追っかけていらっしゃるの?」
 と言う。
「知っていたからって何なのさ」
「だって、恥ずかしいんですもの」
「こんなに思い詰めてる私につれなくするなんて、死ねと言うのか」
「大袈裟ですこと。ただ、あなたに嫌われたくないだけです」
「何で嫌うのさ。誓ってそんなことはないさ」
 鄭がそう言うと任氏はやっと扇をはずして顔を見せた。その艶やかさは先日と変わりなかった。むしろ、美しさを増したようであった。
「この世に私のような者は何人もいるんですの。ただ、皆さん気が付かないだけ。あなたを騙すつもりはなかったんですのよ」
「ねえ、なら一緒に暮らそうよ。あなたのそばから離れたくないよ」
「私たちの仲間には人様に害をなす者もいないことはありません。だから嫌われるのね。でも、私は決してそんなこと致しませんわ。もしあなたが私を信じて下さるのなら、一生おそばに置いて下さいな」
 鄭が否やを言おうはずはなかった。
「じゃあ、どこに住もうか」
「ここから東に行った所に大きな樹が屋根ごしに枝を張っている家があります。周りが静かですから、そこにしましょう。この間あなたと一緒にいらした白馬に乗ったお方はあなたの奥様のお身内でしょう?あの方のお宅には家具が余っているはずですから、少し貸していただきましょう」
 韋の家には伯父達が地方赴任の際に持って行けなかった家具が三軒分置いてあった。鄭が言われた通り、韋の所へ頼みに行くと、
「何に使うんだ?」
 と怪しまれた。
「実はね、最近すごい美人を手に入れたんだ。家は借りたのはいいが、家具までは手が回らなくて君に頼もうと思ってね」
 と鄭が答えると、韋は笑い出して
「君が美人をねぇ…。ふぅん、じゃ今度その美人さんを拝ませてもらおうか」
 そして寝台や帳や家具を気前よく貸してくれた。その上で下男に言いつけて、家具を運ぶついでに女の様子を見て来るよう言い含めて送り出した。しばらくすると息せき切って戻って来て報告に及んだ。
「いたか?」
 と韋がきくと、
「はい、いました」
「で、どんなだった?」
「それが、綺麗だなんてものじゃありませんよ、あれは」
「そんなにひどいのか?」
「その逆です。まさに絶世」
「大袈裟な…。お前まさかその女に鼻薬でも嗅がされたか?」
 そう言って下男をからかった。
「そうお思いになられるのなら、私の話などお聞きにならなければいいではありませんか」
 下男は怒って退出しようとする。韋はそれをなだめて親戚でも美人の評判の高い娘の名を挙げてみた。
「どっちが上だ?」
「比べものになりません」
 美妓の名を四、五人列挙してみても下男は首を横に振る。そこで、長安一の美人と言われている従妹の名を挙げてみた。
「比べものになりませんよ」
 との答え。韋は居ても立ってもいられなくなり、早速身仕度を整えると鄭の借りた家に赴いた。
  先方に着いてみると鄭は外出中であった。童僕が一人、女中が一人いた。
「奥様は?」
 との韋の問いに下女は、
「お留守でございます」
 と言う。部屋の中を見回すと奥に通じる扉の隙間から赤い裾が見えた。さては居留守だな、と見当をつけ、下女を押しのけて入っていくと、果たして扉の陰に女が隠れていた。俯いていて顔が見えない。顎に指をかけて仰のかせると、聞きしに勝る美貌である。韋は任氏の手を握ってしきりに掻き口説いたが、任氏は顔を引きつらせ一言も答えない。韋は前後の見境もなくなって抱き締めて寝室へ連れて行って思いを遂げようとした。すると任氏は猛然と抵抗し始めた。しかし、所詮女の力では抗するすべもなかった。あわやという時になって、
「言うことを聞きますから、少し手を緩めて」
 と言う。そこで手を緩めるとまた抵抗するのであった。そんなことを三、四回繰り返したあげく、力尽きてしまったのか、諦めたようにぐったりとして抵抗しなくなった。紅も白粉も汗で流れて、見るも哀れであった。
「言うことをきいてくれるか?」
 と韋が言うと、任氏は首を横に振って、
「それは無理な相談ですわ。どうしてもとおっしゃるなら、私は舌を噛み切って死にます」
「そんなに私が嫌いか?」
 韋は少し惨めな気持ちできいた。
「いいえ、そういう問題ではありません。ただ、鄭様があまりにもお可哀想…」
「どうして」
「だって、あなたはお金持ちで自分のやりたいことは何でもおできになるご身分でしょう?綺麗な人もずいぶん手に入れなさったはずですわ。でも、鄭様には私しかおりませんの。なぜって、あんなに貧乏なんですもの。鄭様は食べることから着ることまで生活の全てをあなたのお世話になっています。でも、その鄭様から私をお取り上げになったら、あの人には何が残るのでしょう」
 韋はその言葉を聞くと、自分の行いが恥ずかしくなった。すぐに手を放すと、女を助け起こした。任氏は深々と頭を下げて詫びた。
「生意気なことを言って、申し訳ありません」
 それに対して韋も、
「申し訳ないのは私の方だ。あなたの美しさを見て、もう少しで人道を踏み外す所だった」
 と詫びを述べた。

 それ以来、任氏の生活の世話一切は韋が見るようになった。任氏も時折韋の家を訪れるようになり、二人の交際は親密になったが、道を踏み外すことは決してなかった。ただ、韋が気に入った女がいると、どんな深閨の娘でも取り持ってくれた。どういうつてを使うのかきくと従姉妹や親戚の女が権門の妾になっており、奥向きの事には詳しいから、と答えるだけだった。
 任氏はある時、韋に着物を買ってくれるようねだった。綾絹を買ってやろうとすると任氏は、
「既製品を買って下さいな」
 と言う。そこで張大という衣装屋を呼んで好きな着物を選ばせた。任氏の美貌を目にした張大はびっくりした様子で韋に耳打ちした。
「旦那は皇族か貴族のお姫さまでも盗んでいらっしゃったのですか?悪いことは言いません、早くお戻しになった方がようございます」
 任氏の美しさはそれほど人を驚かせたのである。

 一年余り経って、鄭が武官に登用され金城県(注:甘粛省)へ出張することになった。鄭が任氏を出張に伴おうとすると、任氏は行きたがらず、
「たった一月ですもの。日常の生活費さえ置いていって下されば、おとなしくお帰りをお待ちいたしますわ」
 と言う。なおも勧めると果ては怒り出さんばかりになった。そこで韋を呼んで口添えしてもらうことにした。ところが、韋が勧めても首を横に振るばかりである。そこで、行きたくないわけを問い詰めると、
「ある巫女に今年は西に行ってはいけないって言われてますの。それで行きたくないんです」
 鄭はそれを聞くと笑い出した。
「なあんだ、そんなことか」
 韋も笑って
「聡明なあなたがこんな迷信に惑わされるなんてね」
 と無理にでも同行を勧める。任氏は悲しそうに、
「もし、巫女の行ってるのが当たっていたら、私は死ぬのですよ。それでもいいの?」
「そんなことあるものか。私がしっかり守ってあげるよ」
 と繰り返し頼み込む。任氏も根負けして、とうとう行くことにした。韋は任氏に馬を貸してやり、長安の西の臨皐(りんこう)県まで見送って別れた。長安を立ってから三日目、鄭の一行が馬嵬(ばかい)にさしかかった。任氏は馬に乗って前に立ち、鄭はその後ろで驢馬に跨り、女中は別の馬で後ろに続いていた。
 そこではちょうど皇帝のお狩り場の役人が猟犬の訓練をしていた。鄭の視界の端に草むらから黒いものが飛び出して来るのが見えた。猟犬であった。同時に任氏がひらりと馬から飛び降りたかと思うと、狐の正体に戻って駆けて行くのが見えた。猟犬は物凄い勢いで狐を追いかけて行く。鄭もその後を追った。猟犬はあっという間に狐に追いつくと、鋭い歯でズタズタに引き裂いてしまった。全ては一瞬のことであった。
 鄭は泣く泣くお狩り場の役人に銭を渡して狐の死骸を買い取った。任氏は小さな白い狐の姿に戻っていた。その体はまだ温かかった。鄭は狐の死骸を抱き締めて泣いた。心から慟哭(どうこく)した。しばらく泣いた後、その場に埋めてやり、木を削って目印にした。任氏が馬から落ちた所に引き返してみると、馬は何もなかったかのように道端で草を食べている。任氏の着ていた着物は鞍の上にそっくりそのまま残っていた。ただ、簪だけが下に落ちていた。女中の姿はどこにも見えなかった。おそらく狐だったのであろう。馬だけが残っていた。
 十日余り経って、鄭は長安に戻って来た。韋が喜んで出迎え、
「任さんは元気かね?」
 ときくと、鄭ははらはらと涙を流して、
「死んでしまった…」
 と言う。韋はそれを聞くと、鄭と抱き合って声を張り上げて泣き出した。ひとしきり泣き終えた後韋はたずねた。
「あんなに元気そうだったのに、何でまた…?」
「犬に食い殺されたんだ」
「まさか、人を食い殺せる犬がいるわけなかろう」
「実はあれは人間ではないんだ」
「人間じゃなかったら、何だったんだ?」
 そこで鄭は韋に任氏との馴れ初めを全て語って聞かせた。

 翌日、韋は馬車を用意して鄭と一緒に馬嵬へ行き、塚を掘り起こして遺骸を確認してから改めて鄭重に葬り直した。韋は任氏の死を悼んで慟哭した。その生前のことを思い返してみると、自分で着物を仕立てようとしなかったことだけが、唯一人間と異なっている点であった。
 異類であるにもかかわらず節操を守り通し、人に接するに情愛を以ってした点も何ら人間と変わりなかった。その類まれな美貌以外は…。

(唐『任氏伝』)

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