商いの心得(一)


 

 朝の成化年間(1465〜1487)のことである。水の都蘇州(注:江蘇省)に文若虚(ぶんじゃくきょ)という人がいた。生まれつき器用な性質(たち)で、大抵のことはそつなくこなすことができ、諸芸百般一通りこなせないものはなかった。幼い頃に人相見に巨万の富に恵まれると言われ、それを当てにしてあまり真面目に働こうとしなかった。そうこうする内に親の残してくれた蓄えも見る見る減っていった。すっからかんになる前に、財産というものは使えば無くなるということを悟った。大方の人間はこの理屈に気付かないままやり直しのきかないところまで行ってしまうのだから、若虚にはまだ幸運が残っていたと言えるだろう。

「桶の中の水もくみ出すだけや減る一方や。桶の水を増やさんとあかんわなあ」

 彼は巨万の富に恵まれる、と予言されたことを思い出し、一体、どうすれば富を得られるのかを考えた。考えて、考えて、考え抜いた。

「そや、商いやわ」

 という結論に達して、自分も何か商いをして儲けてみようと決心した。しかし、思いつきで成功するほど世の中は甘くはない。結局、桶の水は別の方向へ流れていくだけであった。

 ある時、若虚は北京では扇子の需要が高いという話を耳にした。そこで一人の商売仲間と組み、扇子を大量に仕入れた。さて、この扇子であるが、金面の高級品ならば、まず贈り物を用意して名人に詩や画を書いてもらう。例えば、沈石田(しんせきでん)や文衡山(ぶんこうざん)、祝枝山(しゅくしざん、注:いずれも当時の大画家)という名人になると、手間賃は一筆で銀子二、三両。中等になると、ニセ画家というのがいて、前述の大家らの模倣を専業にしている。出来がいいと本物と称して売ることができる。安物は金もなければ字も画もなしで、あおげりゃ十文の実用本位。それでも何十銭かで売れ、元値くらいは儲けることができる。幸い、若虚には書画の心得があるので、適当に大家の画風を真似て中等品を大量に作った。そして、日を選んで扇子を箱詰めにして、若虚達は北京へと出立したのであった。

「がっぽり儲けたるで」

 いざ北京に着いてみると、あにはからんや、その年は冷夏で来る日も来る日も雨が続き、扇子なんていらない天気で扇子市場は閑古鳥が鳴いている始末。秋に入って涼しくなる頃、ようやく天気もよくなった。天気がよくなると、お洒落な若者達がそぞろ歩きに扇子を持ち歩きたくなる。袖に入れてチラリと見せるのがイカすのである。見せる扇子はもちろん蘇州産のものに限る。というわけで、若虚の店にやって来た。
「こりゃ、儲かるわ」
 若虚はホクホク顔で、箱を開けると一本取り出した。

「ありゃりゃッ!」

 何と、開くはずの扇子が開かないのである。それでも何とか広げようとするのだが、びくともしない。そもそも北京という所は七、八月が梅雨時なのであるが、今年はそれに冷夏の長雨が重なり、湿気のせいで扇子の膠(にかわ)や墨が溶け出して、ベットリとくっついてしまっていたのである。
「おじさん、早くしてよ」
 急っつかれて若虚は焦った。焦って力任せに扇子を広げた。

リッ!

 音を立てて扇子は裂けてしまった。別のを取り出して、今度はソロソロと広げたが、あちらがはがれたち、こちらが裂けたり、で折角の書画も台無しである。破れないのは安物の無地のなのであるが、
「画のあるのはないの?それなら要らないよ」
 と若者達は帰ってしまった。
 結局、安物だけを何とか売りさばいて、帰りの旅費を作って蘇州へ戻ったのであった。もちろん、元手はすっからかんである。

 と、まあ、若虚の商いはこんな具合であった。自分の元手を掏るだけなら良かった。組んだ相手の元手まですってしまうのだから、次第に一緒に商いをしようと言う者がいなくなってしまった。その上、「倒運漢(運の悪い男)」というありがたくない渾名(あだな)まで頂戴してしまったのである。

 

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