商いの心得(三)


 

 れは橙(だいだい)色で丸くて甘酸っぱい物、即ち蜜柑(みかん)である。そもそも太湖(注:蘇州南西の大きな湖)に浮かぶ洞庭山は温かく、土地も肥沃で福建や広東と気候がよく似ていた。広東蜜柑、福建蜜柑が天下に名高いが、この洞庭山でもこれと非常によく似た蜜柑を産した。見た目も香りもそっくり。ただお味の方は出始めの頃は少々酸っぱいが、熟すと甘くなる。その名を「洞庭紅」と言い、値段は何と福建蜜柑の十分の一という代物。若虚は籠に盛られた蜜柑を見ると、
「蜜柑ならこの銀一両で百斤買うてもおつりがくるわ。船旅やさかい、喉も渇くやろ。みんなで分けたら、それこそお礼のしるしにもなるわいなあ」
 そこで百斤ばかり蜜柑を買い求めると、竹籠に詰めて人を雇って自分の荷物と一緒に船へ運び込ませた。船に着くとみんなが手を叩いて笑って言った。
「おおい、文先生のお宝が来はったで」
 若虚は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、ぐっとこらえて船に乗り込んだ。
「纜(ともづな)解けえ〜」
 船は運河をゆっくりと下って行った。

「海はええなあ」
 若虚は船の甲板に坐って、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。船は運河を抜けて海へと乗り出し、銀波金波を乗り越えて、南へ向かって進んで行った。大波が来れば天と水とが溶け合って、上下左右もわからなくなり、船が逆さまになって泡立つ天を走っているような、そんな錯覚に襲われることもしばしばであった。半月余りの間、風のまにまに漂っていたが、風景が変わらぬので一体どれだけ進んだものやら、まったく見当がつかなかった。
「ありゃ、ゴミかいな?」
 遙か行く手の海上に何やらぼんやりと黒い点が浮かんで見えた。若虚が目をしばたかせていると、
「陸地が見えたぞぉ」
 と見張りが叫んだ。その声に応じて一同わらわらと甲板に集まって来て、だんだん大きくなる黒い点を熱心に見つめた。
 若虚が黒い点だと思ったのはかなり大きな陸地の一部であった。人家が密集し、堅固な城郭がそびえ立ち、どこぞの国の都のようである。船頭は船を桟橋へ寄せて杭を打ち込み、錨を下ろし纜をしっかりと結わえ付けた。こうして船の接岸が完了すると、商人達が上陸し始めた。張大が、
「ここは吉零国いうてな、わてらのええお得意さんや」
 と教えてくれた。
 そもそも中国の品物をこちらに持って来ると、原価の三倍の値段になる。また、こちらの品物を中国に持ち帰っても三倍の値段で売れる。というわけで、一往復ごとに八、九倍の利益を上げることが出来るのである。これが、海外交易の利点で、それ故、年に何千人もが海の藻屑となりながらも命懸けでこの道を歩むのであった。
 皆、交易の経験者でそれぞれ馴染みの取引先へと足を運んで行った。若虚はこの土地は不案内で言葉も分からないので、一人で留守番である。
 皆が行ってしまった後、何をするわけでもなく若虚は甲板にぽつねんと坐っていたが、突然、
「あの蜜柑、船に積み込んでから、ちっとも籠を開けとらんが、一体、どうなってるやろ。もしかして、蒸れてダメになっとるかもしれん。そやったら、えらいこっちゃ」
 と思い出した。急いで船頭を呼ぶと、船倉を開けてもらった。幸い、蜜柑は腐っておらず、どれもいい色つやをしていた。若虚はホッと胸を撫で下ろしたが、少し風に当てようと思い、蜜柑を全部甲板に運び出してきれいに並べた。そのまま自分も蜜柑と並んで日向ぼっこをし始めたのである。
 蜜柑のいい香りに包まれてウツラウツラしていた若虚の耳に、人々のざわめきが聞こえてきた。
「やあ、ふねがやっとっとかおもたどな。(いやあ、船が燃えよるんか思うたわ)」
「てんどほじおほせといもんかおもたが。あいないか?(天の星を干しよるんか思うた。ありゃあ何やねん?)」
 若虚が起き上がると、桟橋には山のような人だかりが出来ていた。

 

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