三人の許嫁(後編)


 

 煦(かく)は声を張り上げて命じた。
「秀児の望みを叶えてやるのだ。誰か、阿片(アヘン)スープを作って持ってこい」
 間もなく、小役人が湯気の立つ碗を捧げて現れた。碗からは甘ったるい匂いが漂ってきた。夏煦は一同に向って言った。
「ご一同、このワシのことを恨んでくれるなよ。これは秀児自身が健気(けなげ)にも自分で選んだ道だ。ワシとは一切、無関係なのだからな。このことだけは忘れぬようにな」
 秀児は小役人から碗を受け取って足元に置くと、母と伯父に向って深々と頭を下げた。
「お母様、今日まで私をお慈しみ下さり、ありがとうございます。お父様にお会いできないことが、唯一の心残りです。どうかお父様によろしくお伝え下さい。伯父様は父が赴任してからというもの、何くれとなく私達母子の面倒を見て下さいました。このご恩に報いられない不肖な姪をお許し下さい」
 秀児の母は半狂乱になって娘に駆け寄ろうとしたが、居合わせた小役人達に遮られた。秀児は両の手で阿片スープの碗を捧げ持って目を閉じると、唇を付けた。
「秀児や、私の可愛い子、お願いだから飲まないでおくれ」
 母は髪を振り乱して泣き叫んだ。伯父は姪の最期を見るに忍びなく、両手で顔を覆っていた。三人の許婚達は思わぬ展開にものも言えずに立ち尽くしている。夏煦はと言えば格別、憐憫(れんびん)の情を感じる風もなく、一同を眺めていた。秀児は碗のスープを一気に飲み干した。
 秀児の手から碗が落ち、その体がゆっくりと役所の冷たい床の上に崩れ、そのまま動かなくなった。娘が事切れたのを見て、母は天を仰いで号泣した。伯父もすすり泣いた。
 夏煦は秀児に近寄ると、その口元に手の平をかざして息のないことを確かめた。胸の下の鼓動も動きを止めていた。
 秀児が完全に死んだことを確認した夏煦は、一同に向き直って言った。
「さて、花嫁は亡くなってしまった。残ったのは三人の花婿だ。そなたらの内で、この哀れな娘を自分の妻として葬りたい方はおられるかな?」
「私が欲しいのは生きた花嫁でございます」
 最初に口を開いたのは母が許婚に決めた商人であった。この現実的な男は、目前で許婚が自尽した衝撃から早くも立ち直っていた。
「妻というのは生きていてこそ役に立つものでしょう。死んでしまった妻を連れて帰ってどうしろというのです。まあ、私には関係のないことですな」
 続いて伯父が選んだ金持ちが答えた。
「花嫁といっても、まだ婚礼も済ませていないんですよ。娘はまだ満家の者なのです。よその家の娘を引き取る道理はないでしょう」
 そして、一刻でも早くこの場を立ち去りたそうな様子を見せた。夏煦は父が娘婿に選んだ秀才にたずねようと振り返った。その秀才は両目いっぱい涙を浮かべて、床に横たわる秀児を見つめていた。
「そなたはどうする?」
 問われた秀才は夏煦の前に跪いて言った。
「私は父の命で花嫁を迎えに参りました。そのまま実家に連れて帰って、婚礼を挙げるためです。我が花嫁は自ら命を絶ちましたが、この縁組みは正式なものなのですから、花嫁は我が家の立派な一員です。花嫁の亡骸(なきがら)を引き取り、妻として葬ってやりとうございます」
 夏煦は秀才の答えに満足そうにうなずいた。
「よし、わかった。ご一同、この秀才の言葉、しかと聞かれたな」
母も伯父も商人も金持ちもうなずいた。夏煦はさらに続けた。
「後でもめてもことだ。ここは訴訟を起こした三人に誓約書を書いてもらおう。今後、何が起きても蒸し返すことのないようにな」
 小役人が紙と筆の用意をする間に、夏煦は商人と金持ちに向って言った。
「お二人は花嫁を埋葬することを断られたな。ならば、結納の品を全て秀才に送る、と誓約書に書いてもらおう。これは亡くなった花嫁への香典だ」
 三人は夏煦に言われた通り誓約書をしたためると、それぞれ花押を記した。そして役所から引き揚げたのであった。
 秀才は秀児の亡骸をひとまず、その母の家に運び込んだ。秀才は母と共に秀児の顔を拭いてやり、経帷子(きょうかたびら)を着せた。娘の象徴であるお下げ髪を、人妻の髪型に結い直してやりもした。身仕度を整えてやってから、亡骸を泣く泣く柩(ひつぎ)に納めたのであった。
 秀才が柩の前で花嫁を弔うべく泣こうとしたその時、突然、柩の中で物音がした。驚いた秀才が顔を上げると、何と死んだはずの秀児が柩の中で起き上がっていた。
「秀児どの、秀児どの、もしや迷われたのか?」
 秀才は床に額をすり付けながら呼びかけた。騒ぎを聞いて家人が集ってきた。当の秀児は柩の中でしばらくボンヤリと周りを見回していた。やがて立ち上がって歩き出したのだが、家人は遠巻きにして見ているだけだった。
 そこへ、
「夏大人のお成〜り〜」
 と呼ばわる声が響いた。家人の迎えに出るのを待たず、夏煦は中に入って来た。その顔には満面の笑みを浮かべていた。
「ワシはおめでとうを言いに来たぞ」
 そして秀児を指差して続けた。
「ワシが秀児の飲ませたのは阿片スープではない。迷昏(めいこん)湯じゃ。飲むと呼吸も鼓動も止って仮死状態になる。よほどの名医でない限り、見破ることはできぬわ。これぞ悲しみ変じて喜びとなる、じゃな。三人の中で誰が一番、実直なのか、これでわかったのだからな」
 こう言って夏煦は豪快に笑った。つられて秀才も笑い出した。ようやく事態を呑み込んだ秀児も微笑んだ。母も伯父も笑った。満家の人々は秀児を囲んで喜びにひたったのであった。

(『避暑山荘外八廟的故事』より) 

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