笑い上戸(二)


 

 服は昨日までのことを思い返しながら、樹上の嬰寧を見つめた。考え込む子服の様子が笑いを誘ったらしく嬰寧はそっくり返ってますます笑う。ついにバランスを崩して転がり落ちてしまった。これにはさすがに嬰寧もビックリしたようでキョトンとして坐り込んでいる。子服は駆け寄ると嬰寧を助け起こした。ちょうど周囲に誰もいないのを幸いにぎゅっと抱き締めた。温かで柔らかい体であった。抱き締められて嬰寧は身を震わしている。もしや怖がらせたのでは、と手を緩めると何と笑いをこらえていたのである。
 笑いがやっと一息ついた時、子服は袖からしおれた梅の花を取り出した。
「こんなしおれた花どうなさるの?」
 嬰寧が訊ねた。子服はその肩を抱きながら、
「これは君が元宵の野歩きの時に捨てた花さ。ずっと大事に持ってたんだ」
「なんで?」
「君のことを忘れないためだよ。元宵の時に君の姿を一目見た時から、恋の虜になっちゃった。もう、駄目だと思った時に、はからずもこうして会えたんだ。少しは僕のことを可哀想だと思ってくれる?」
 そう言いながら子服は嬰寧の髪に頬を埋めた。花の香りが沁み込んでいた。
「よくってよ。従兄妹同士ですもの。お兄様がお帰りの時にはこの庭中のお花を差し上げるわ」
 嬰寧の物分かりの悪さに子服は泣きたくなった。
「わかんないかなあ…。僕が好きなのはね、花なんかじゃないんだよ。花を持っていた君なんだ」
「あら、私だってお兄様のこと好きよ。だって、身内同士ですもの、当たり前でしょ」
「僕の言ってるのはね、身内のことじゃないんだよ。夫婦の、男女のことなんだよ」
「どうちがうの?」
 あっけらかんと嬰寧が子服の顔を覗き込んだ。息と息が触れ合うくらい接近した。子服は思い切って言った。
「つまりね、夜は一緒に寝るんだ」
 その答えを聞いて嬰寧はしばらく俯いて考え込んでいたが、やがてポツリと言った。
「無理ね。だって私知らない人とは寝付けないんだもの」
 その言葉が終わらない内に、小栄が来たので子服はその場を逃げ出した。しばらくして老婆の所でまた顔を合わせた。老婆が訊ねた。
「どこに行ってたのかえ?」
「お兄様とお庭で話してました」
「ずいぶん長話だったみたいだけど、何を話してたのかえ?」
「お兄様がねえ、私と一緒に寝たいんですって」
 嬰寧がケロリとして答えるので、これには子服も慌てた。急いで目配せすると、女は含み笑いをしてやめた。幸い老婆は耳が遠いので聞こえなかったようである。老婆の前を辞去してから、子服は嬰寧の袖を捉えて詰った。
「あんなこと人前で言っちゃ駄目だよ」
「親に隠し事なんて。それに誰だって夜は寝るんだから、言っちゃいけないなんて可笑しいわ」
 そう答えると嬰寧はまたもや笑い出した。子服はもうお手上げであった。

 さて、一方子服の家では突然子服がいなくなってしまったので、大騒ぎになっていた。親しい呉の所へも使いの者がやって来た。子服蒸発の話を聞いて、呉は以前自分の言ったでたらめを白状した。そこで早速迎えの者を探しにやり、子服が訪れたであろう村里を探させた。
 子服が昼食を済ませて門を出ると、偶然その迎えの者と出くわした。早速老婆に知らせて同行しないかと持ちかけた。すると老婆は、
「そうしたいのは山々じゃが、何といっても体がきかぬでな。この子だけ連れて行って身内に引き会わせてやって下さらぬか」
 と言って嬰寧を嬰寧を呼んだ。嬰寧は迎えの者を見てクスクス笑っている。
「ほれ、また笑ってばかりで…。お兄様がの、お前を叔母さんのお宅に連れて行ってくれるそうじゃ。早く支度をなさい」
 迎えの者に酒食を振る舞っている間に嬰寧の支度が済んだ。老婆は側に呼び寄せると、
「叔母さんのお宅は物持ちでお前に一人や二人養うのは何でもない。しばらく置いておもらい。そして行儀作法の一つも身につけることじゃ。先で叔母さんにお頼みして良いお婿さんを選んでもらえるようにな」
 と戒めた。嬰寧は笑いを押し殺してそれを聞いていた。老婆と小栄に見送られて二人は出発した。谷を曲る所で振り返ると老婆はまだ門に寄り掛かって見送っていた。
 びっくりしたのは子服の母親である。息子がしばらくいなくなったと思うと、突然美しい娘を同伴して帰って来たのである。子服は、
「お母様の姪ですよ」
 と言う。母が、
「実はね、呉さんの言ったことは苦し紛れのでたらめだったのだよ。私には姉もいなければ姪もいないのに」
 と不思議がる。すると嬰寧が言った。
「私は母の実の子ではありません。父は秦と言います。赤子の時に亡くなったので何も憶えておりませんが」
「亡くなった姉が秦家に嫁いでいたけど…。とっくに亡くなってるけどねえ」
 と母はますます不思議がる。そこで顔かたちを詳しく訊ねると、そのどれもが一致する。不思議なことだ、と言っている所に話を聞きつけた呉がやって来た。嬰寧は隣室に隠れた。話を聞いた呉は目を丸くした。
「もしかしてその娘の名前は嬰寧って言うんじゃないの?」
 子服がうなずくと、
「やっぱりあの話はホントだったんだ。いえね、秦の伯母さんが亡くなった後、伯父さんは狐と同棲してたんだ。誰もその姿を見たことはなかったんだけどね。それがもとで伯父さんは早死にしてしまった。ちょうどその頃、狐が女の子を生んで嬰寧と呼んでた。伯父さんが亡くなった後も狐はちょくちょくやって来てたんだが、家人が怖がってお符(ふだ)をもらって貼っておいたら、女の子を連れてどっかに行ってしまったって話だったよ」
 その話に皆が驚き呆れていると隣室から嬰寧の笑う声が聞こえてきた。
「自分のことが話題になっていると言うのに、笑ってるなんて…」
 母はあまりいい顔をしない。呉に挨拶するように呼びに行くと、なおも笑って出てこようとしない。笑いすぎて出てこられないのである。それを無理矢理に連れてくると、ぴょこんと一つお辞儀を残して、また隣室へ駆けて行って笑い転げていた。部屋中の女達も釣られて笑った。子服の母も気が付くと笑っていた。
 瓢箪から駒、ということで、呉が仲人を買って出て嬰寧の実家を探したが、西南の山には村里はおろか家一軒見当たらず、ただ野花が茫々と咲いていた。確かこの付近に秦の伯母の墓があったことを思い出して探したが、塚は崩れてしまい、見つけることができなかった。
 家もなく老婆もいなくなって、嬰寧がさぞかし悲しむことだろうと思ったが、意外なことにけろっとしていた。皆が帰る所のなくなった嬰寧を不憫に思っていても、当の本人は笑いさざめいていた。

 

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