緑衣の人(前編)


 

 水(注:現甘粛省)の人、趙源(ちょうげん)は早くに両親を失い、妻もおらず、まったくの独り者であった。元の延祐年間(1314〜1320)に杭州(注:浙江省)の銭塘(せんとう)に遊学し、西湖のほとりの葛嶺(かつれい)に寓居(ぐうきょ)を定めた。すぐそばには宋の奸臣賈似道(かじどう)の旧宅があった。
 ある夜、趙源が寓居の前を散策していると、東の方から女が一人、歩いてくるのが見えた。緑衣をまとい、髷(まげ)を左右に輪がね、年の頃は十 五、六、特に飾り立てているわけではないが、したたるように美しい。趙源が思わず見とれていると、女はニッコリ笑みを残して通り過ぎていった。
 翌日も同じ時刻に趙源はいくばくかの期待を胸に門を出たところ、またもや女とすれ違った。こうしたことが何度か続いた後、趙源は戯れに声をかけてみた。
「お嬢さん、お宅はどちらでしょう?こちらへは毎晩で?」
 すると女は笑って会釈して、
「あなたとはお隣同士ですのよ。ご存知ないだけですわ」
 と答えた。趙源が誘ってみると、女は喜んで応じ、その晩は泊まっていった。すっかり打ち解け、朝になると女は帰っていったが、夜にはまたやって来て泊まった。こうしたことが一月あまり続き、二人の情愛はますます深まった。
 趙源は何度も女に名前や住所をたずねたのだが、女は、
「美女が一人手に入ったとお思いになればよろしいではありませんか。そんなに穿鑿(せんさく)なさることもないでしょう」
 と言って答えなかった。
「でも、名前を知らないままじゃ、君のことをどう呼べばいいの?」
 なおもたずねると、女はこう言った。
「私はいつも緑の衣を着ているから、緑衣の人とお呼びになればいいわ」
 とうとうその住所は明かさなかった。趙源は、これはてっきりご大家の侍妾(じしょう)が夜、徘徊(はいかい)しているか何かで、名前や住所を明かすと差し障りがあるのだろう、と思った。しかし、もうそのようなことはどうでもよかった。女がどこの誰であろうと、彼は変わらぬ愛情を捧げるつもりであった。
 ある夜、趙源は女と差し向かいで酒を酌み交わし、したたかに酔った。酔った戯れに女の衣を指差すと、『詩経』の一節をひいて歌った。
「緑の衣、緑の衣に黄の裳裾(もすそ)」
 すると、女はさっと顔を赤らめて押し黙ってしまった。朝になって帰っていったのだが、その夜は姿を現さなかった。翌日の夜も姿を現さない。数晩も続けて姿を現さないので、趙源が心配で気をもんでいると、ひょっこり姿を現した。
 趙源がその理由をたずねると、女はこのようなことを言い出した。
「私はあなたといつまでもご一緒にいたいと思っておりますのに、どうしてお妾扱いをなさいますの?ああ、でも、あなたがもうご存知なのなら、これ以上隠す必要はありませんわね」
 趙源がどういうことかもっと詳しく聞かせてくれ、とせがむと、女は悲しそうな顔をした。
「どう申し上げればいいのでしょう?実は私はこの世の者ではございません。でも、あなたに祟りをなすようなことはありませんわ。それもこれも前 世の因縁なのですから」

 

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