五原の夜(中編)


 

 丈夫は趙合に向かって敬礼すると、語り出した。
「貴殿は仁義に篤く、誠実で廉潔なお人柄とお見受けいたした。か弱き女子(おなご)の頼みを聞き入れるとは、感服いたしました。拙者は尚書の李文悦(りぶんえつ)と申します。元和十三年(818)にこの五原を守備いたしておりました。時に犬戎(けんじゅう)の三十万もの大軍が城に押し寄せ、十重二十重(とえはたえ)に城を囲み、敵陣の厚さは十数里にも及び申した。降り注ぐ矢玉は雨のよう、城壁に掛けた梯子は雲に届かんばかり。敵は城壁を穿(うが)ち、堀を切って落とし、昼も夜も攻撃の手をゆるめない。城中から戸板を担いで水を汲みに出れば、たちまち矢が突き立ち、針鼠のようになる有り様。守備するのはわずか三千兵。住民を励まし、婦女老幼も土を背負い、飢えも寒さも構わなかった。
 敵は城の北に数十丈もの櫓(やぐら)を建て、城内の様子を監視しにかかった。そこで、拙者は奇策を用い、櫓を粉砕してやり申した。すると、敵 の大将は愕然として、神の仕業ではないかと思ったそうな。城内は薪不足に苦しんでいたので、拙者はこう触れて回った。
『建物を壊して焼くのをやめよ。薪ならば城壁の下にいくらでもある』
 城内の者に櫓の残骸を釣り上げて、薪にあてさせたのだ。
 また、月の暗い夜、突然、城壁の周りが騒がしくなり、続いて、
『夜襲だ!!』
 と呼ばわる声が聞こえてきた。城内の住人は怯えきって、おちおち眠ることもできない。拙者が、
『これは違う』
 と言って、鎖に結び付けた蝋燭を垂らしてみたところ、敵が牛や羊を走り回らせて大勢の人馬の足音のように見せかけているだけであることがわかった。城内の人も兵士もようやく安堵(あんど)したのであった。
 一度、城壁の西北が十丈余りにわたって破られたことがあった。ちょうど闇夜で、敵陣では城壁が破れたことに気をよくして派手な酒盛りをしておった。飲めや歌えの大騒ぎの中、こう言い合っているのが聞こえた。
『夜が明けたら突入するぞ』
 そこで、石弓五百張を馬に積んで城壁の破れ目に並べて敵を威嚇し、その間に皮の大きな幕を垂らして破れ目を覆った。そして、上から水をかけさせた。寒い季節であったから、水はすぐに凍り、翌朝には氷の壁となった。日の光を受けて銀のように輝く城壁を、敵はよう攻めることもできなんだ。
 敵の大将は酋長から賜った軍旗を本陣におし立てていたのだが、拙者は闇夜に乗じて本陣に忍び込み、これを奪って戻った。敵陣では軍旗を奪われたことを知ると、将兵は号泣し、捕虜をすべて返すから軍旗を戻してくれ、と懇願してきおった。先に捕虜の返還を要求すると、老若男女百人余りを本当に解放してきた。捕虜をすべて城内に収容してから、軍旗を投げ返してやったわ。
 その頃、近隣諸城からの援軍二万人が五原の境まで来ていたのだが、敵の大軍に恐れをなして近づこうとしなかった。こうして我等は孤立無援のまま敵とにらみ合うこと三十七日、敵の大将が遠くから拙者に向かって敬礼をしてこう呼ばわった。
『この城には神将がおわすようじゃ。これ以上、攻撃をしかけることはいたしますまい』
 そして、包囲を解いて引き上げ、二晩も経たぬうちに宥州(ゆうしゅう、注:現内蒙古自治区)を襲い、一日で攻め破り、老少三万人を捕虜として連れ去った。
 この結果を引き比べれば、拙者の功績と五原城の果たした役割は小さくはないはずだ。しかし、時の宰相は拙者が実権を握るのを恐れ、ただ一階級昇進させただけであった。聞けば鍾陵(しょうりょう)の韋大夫は堤防を築き洪水を防いだため、三十年後も民はその功績を讃え、勅命で徳政碑を建てて顕彰しているとか。もしも拙者があの時、五原を守り通さなかったなら、城中の人々はことごとく蛮人の奴隷となっていたであろう。
 貴殿を心ある人と見込んでお頼みしたきことがござる。このことを五原の民に告げ、州の刺史に拙者の功績を思い出させ、徳政碑を建てさせていただきたいのです」

 

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