西(せんせい)に安という人がいた。代々、屠殺業を営んでおり、自身も羊の母子を飼っていた。

 ある日、安は母羊を解体して、その肉を市場で売ることにした。母羊を柱に縛りつけて牛刀を振り下ろそうとした。すると、子羊が突然、安に向かって前足を折って跪いた。両の目からは大粒の涙をポロポロと落とし、まるで母の命乞いをしているかのようである。安は驚いて思わず手を止めた。子羊はじっとこちらを見つめて、涙を落としながらイヤイヤをする。これにはさすがの安も母羊を殺しかねた。
 そこで、牛刀を地面に置くと、手伝わせるために下働きの小僧を呼びに行った。小僧を連れて戻ると、置いておいたはずの牛刀がない。はじめは隣 人が盗んだのかとも思った。取り返しに行こうかと思ったが、市場へ行く時間に遅れてしまう。ほかに牛刀はないので、急いで辺りを探すことにした。
 見ると垣根の下で子羊が寝そべっている。牛刀はその腹の下にあった。おそらく、安が離れたすきにくわえて行って自分の体で隠したのであろう。

 安は子羊にすら母の命を救おうという気持ちがあることを知り、心に悟るところがあった。羊の母子を寺へ送り、理由を述べて飼ってもらうことにした。自身も家族を捨て、寺に身を投じて出家し、守思と名乗った。

(五代『玉堂閑話』)