竹葉の舟


 

 南の人、陳季卿(ちんきけい)は青雲の志を抱き、家族に別れを告げて単身都に上った。彼は旅立ちに臨んで進士になるまでは故郷の土は踏まない、と誓った。十年が過ぎたが、志を遂げられないままに都で売文稼業をして暮らしを立てていた。
 季卿はよく青龍寺の僧侶と行き来をしていた。ある日、僧侶のもとを訪ねたところあいにく留守だったので、彼はその帰りを待つことにした。終南山から出てきた老人も僧侶の帰りを待っていた。
 しばらく待っても僧侶は戻って来ない。老人が季卿に言った。
「日はもう西に傾いておりますが、腹は空きませぬか?」
 季卿は笑って答えた。
「実は腹が空いて仕方がないのですよ。しかし、和尚さんがまだ戻ってこないので、どうしようもありませんね」
 すると、老人は手に下げた巾着から一寸ばかりの薬を取り出して煎じると、季卿に勧めた。
「これをお上がりなされ。少しは腹の足しになりましょう」
 言われるままに飲んでみると、空腹感が消え、心身ともに満たされた気持ちになった。
 部屋の東側の壁には地図が一枚懸けてあった。季卿はその江南地方の部分を眺めていたが、やがて悲しげにため息をついた。
「舟で渭水(いすい)から黄河に出て、洛陽に寄って淮河で泳いで、揚子江を渡れば家に帰れるのになあ……。志を果たすまでは帰らないなんて言うんじゃなかった」
 老人は笑って言った。
「たいして難しいことではありませんな」
 そして、小坊主を呼んで庭先の竹から葉を一枚つんで来させた。老人は竹の葉で小舟を作ると、壁から地図を下ろし、渭水の上に小船を置いた。
「この小舟をよく御覧なされよ。これがあなたをお望みのところへ連れて行ってくれます。ただし、家に着いても、このことは誰にも言ってはなりませんぞ」
 季卿は言われるままに小舟をじっと見つめた。眺めるうちに渭水にさざなみが立ち始め、竹の葉の小舟がみるみる大きくなった。

 気がつけば季卿は渭水のほとりにいた。目の前にはむしろの帆を張った舟がとまっている。
「夢かなあ……」
 季卿は頭のどこかでぼんやりそう思いながら舟に乗り込んだ。
 渭水を下って黄河に出て、淮河に入って揚子江を渡った。地図でたどったのとまったく同じ行程であった。十日ほどで江南の我が家に到着した。妻子や兄弟は突然の帰郷に驚いたが、歓迎してくれた。季卿は家族に再会できた嬉しさのあまり、書斎の壁に詩を書きつけた。
「もう戻りたくないなあ、家族のそばにいたいよ……」
 季卿は家族に隠れて一人泣いた。
 二時間ほど過ごしてから、再び舟に乗って都へ向かった。出立に際して季卿は妻や兄弟に詩を二首残した。
 季卿は往路と同じ行程で青龍寺まで戻った。寺では終南山の老人が巾着を手に坐っていた。西に傾いた日はまだ没しておらず、僧侶もまだ戻っていなかった。すべては元のままであった。
「帰るには帰りましたが、あれは夢なのでしょうか」
 老人は笑って言った。
「六十日後にわかりますよ」

 二ヵ月後、江南から妻が上京してきた。長らく家を離れている季卿のことが心配になって、というのがその理由であった。
「二月前に突然戻ってきたかと思ったら書斎で一人で泣いてらっしゃるし、詩まで残していらっしゃったから心配したんですよ」
 妻の言葉で季卿はあれが夢ではなかったことを悟った。

(唐『纂異記』)