当盧売酒

 

―――― 前漢 卓文君(紀元前2世紀) ――――

 

 の国(注:四川省)に一軒の居酒屋が開業した。居酒屋はごく小さく、カウンターを一つ設えられただけのものだったが、瞬く間に大繁盛した。まず、市場のど真ん中ということで立地条件がよかった。次に当地の名水を使って醸した酒の味も人気を博するのに一役買った。しかし、何よりもカウンターの向こうで愛嬌を振りまく女将(おかみ)の魅力が何よりも人を引きつけたのであった。
 この女将、芳紀まさに十七歳の美少女であった。その上、女将には若さと美貌あふれる魅力のほかに、客の好奇心を駆り立てるものがあった。彼女が地元の大金持の卓家の令嬢だったからである。

 前漢の景帝六年(前152)のことである。一人の尾羽うち枯らした文人が成都に舞い戻ってきた。この文人、司馬相如(しばしょうじょ、前179〜前117)、字(あざな)を長卿(ちょうけい)といった。もとは武官として景帝の側近くに仕えていたが、元来が文学肌の相如にとってこれは好むところではなかった。折よく、景帝の弟に当たる梁の孝王が長安にやって来た。この孝王は殊のほか文学を好み、そのサロンには当代随一の文人が集っていた。相如は病気と称して辞職すると、このサロンに身を投じた。それからの数年は相如にとって夢のような日々であった。思う存分、文学に身を委ねることが出来た。しかし、夢のような日々も長くは続かなかった。パトロンである孝王が亡くなってしまったのである。サロンは解体し、相如はやむなく故郷である成都に戻って来たのであった。多年のサロン暮らしのため蓄えといったものはなし、落魄無為(らくはくむい)の生活を余儀なくされた。
 鬱々と日を暮らす相如に友人の王吉(おうきつ)という者が、うちに来いよと声を掛けた。王吉は成都の西にある臨邱(きゅう、注:きょう“工+邑”の当て字)県で県令(注:県の長官のこと)をしていた。誘いに応じて相如は出掛けていったのだが、王吉は一介の無職文人にすぎない彼のために城下の駅亭に部屋を用意してくれた。それからというもの王吉がへりくだった態度で相如のもとを訪れる姿がしばしば見られるようになった。相如の方も初めのうちはきちんと面会していたが、こう頻繁だと面倒くさくなり、だんだん素っ気ない態度をとり出した。不思議なことに、つれなくされて王吉の態度はますます遜(へりくだ)るのである。これには周囲の者が驚いた。県令ともあろうお方があそこまで遜るとは、あの駅亭に泊まっているお客はただ者じゃないらしい、という噂がいつの間にか立つようになっていた。
 この臨邱県に卓王孫という大地主がいた。当地では並ぶ者のがない金持ちであった。どのくらい金持ちかと言うと奴僕を八百人も擁するほどだった。これが相如の噂を聞きつけ、これは是非とも酒宴を開いてもてなさねば、と思い立って招待状を寄越してきた。酒宴の当日、県令の王吉は定刻どおりにやって来たのだが、肝心の相如の方は病気を理由にやって来ない。すると王吉は出された料理に箸もつけず自ら相如を迎えに行った。そこで卓王孫は相如というのは物凄い大物だとますます思い込んだ。
 相如の到着を今か今かと待ちあぐねている所へ、取り次ぎ役の声が響いた。
「司馬長卿さま、ご到着」
 宴席に連なった一同は一斉に広間の入口に注目した。皆、どんな人物が来るのかワクワクしながら待っていると、現れたのは颯爽(さっそう)とした文学青年。錦の袋で包んだ琴を携えていた。相如の水際立った男ぶりに一同、息を呑み、さすがは都におられた方だ、と感嘆したのであった。
 宴たけなわとなり、王吉が相如の前に進み出て何やら耳打ちした。相如が盃を口に運びながらチラリと奥に目を遣ると扉の隙間から誰やらこちらを見ている。
「あれが卓家の令嬢、文君(ぶんくん)だぜ。ようやくご本尊の登場だ」
 王吉が囁(ささや)いた。
「よく見えないなあ」
「それは向こうも同じさ。あの娘、音楽が大好きなんだと。ここは一発決めろよ」
 実は今日までの王吉の慇懃(いんぎん)な態度は、司馬相如と卓文君とを引き合わせるための計略だったのである。王吉は改めて大袈裟な身振りをすると、相如に向かってこう言った。
「田舎の酒宴ゆえ、これといった趣向もござりませぬ。さぞや、ご退屈なさったことでしょう。長卿殿におかれましては琴をお好きだと聞き及んでおりまする。どうかご随意に演奏でもなさって、ご自身でお楽しみ下さいませ」
 一応、相如は辞退したが、再度懇願されてやむなく一、二曲披露することにした。
 相如は持参の琴を取り出したが、これがかつて孝王に仕えていた折に賜った緑綺(りょくき)という逸品。そして奥に向き直ると、弦を調律しながら奥の扉にじっと目を据えた。今、扉はかなり大きく開かれ、その向こうにいる麗人の姿をすっかりさらしていた。そこに立っていたのは芙蓉のごとき顔(かんばせ)に遠山のごとき眉、白く滑らかな肌の美少女であった。卓家の令嬢に心惹かれるものを感じた相如は、琴を伴奏に『鳳求凰』という曲を歌った。この鳳が伴侶となる凰(おおとり)を求める歌に相如は自分の思いを託し、文君を口説いたのである。
 琴の演奏も終わり、宴会もお開きとなった。自室に戻った文君は相如の演奏の余韻に浸っていた。この文君、親に勧められるままに早く結婚したのはいいが、さっさと相手に死なれてしまい、今では実家で無聊を託(かこ)つ身である。再婚の話がないでもないが、どれも田舎臭くていただけない。このまま恋も知らずに朽ち果ててしまうのか、と半分諦めていたところへ耳にしたのが司馬相如の噂である。実際に見てみると、噂以上にいい男である。
「奥様はいらっしゃるのかしら?」
 文君はふとそんなことを考えた。
「でも、私のような田舎者、相手になさるわけないわね」
 文君が一人で悶々としていた時、侍女が何やら持って来た。
「お嬢様に贈り物です」
 受け取ってみると、何と相如からの贈り物である。しかも手紙が添えられていた。美文家司馬相如が腕を振るってしたためた恋文に文君は文字通りしびれてしまった。そして、その夜の内に家を抜け出して相如が逗留する駅亭へ走ったのである。これに相如が喜ばないことか。そのまま手に手を取り合って、相如の故郷成都へ駆け落ちしたのであった。
 さて、成都に行った文君を待ち受けていたのは相如の現実の姿であった。
「僕の家だよ」
 と見せられたのは四面に壁が立っているだけのボロ家。呆然とする文君に相如は、
「何とかなるさ、まずは固めの盃でも」
 と文君の不安などどこ吹く風。そう言うわけで文君の着てきた水鳥の羽毛の上着を酒に換えることにした。相如は文君を膝に抱き上げ、共に酒を飲んでいたのだが、しばらくすると文君は相如の首に両腕を廻してはらはらと涙を落とした。
「私は今まで何不自由なく生活してまいりましたわ。それが着物をお酒に換えなければならないなんて」
「でもなあ、親父さんの前に顔は出せないしなあ」
 娘の出奔を知った卓王孫は烈火のごとく怒って、
「あんな馬鹿娘は勘当だ。びた一文財産は分けてやらん」
 と言ってどんな取りなしもはねつけているという。その噂は相如の耳にも入っていた。すると文君は、
「まあ、私にまかせてちょうだい」
 そして二人で臨邱に戻ったのである。まず文君は身の回りの品をすべて売り払って一軒の小さな店を買い入れて開業したのが、冒頭で述べた居酒屋である。カウンターには文君が坐り、相如は褌(ふんどし)一丁で市場の井戸で食器洗い。この居酒屋の評判は瞬く間に臨邱中に広まった。何と言っても大地主、卓家の美人令嬢がもてなしてくれるというのだから、評判にならないわけがない。あの褌姿のは卓家のお婿さんだそうだというわけで好奇心をひいたのである。全ては文君の計画であった。見栄っ張りの父がこれを気に病まないはずがない。思った通り、これに恥じ入った卓王孫は門を閉じて外出しなくなってしまった。親戚の者が懸命にとりなした。
「一男二女しかないのですぞ。いくら駆け落ちしたからってあなたのかわいい娘でしょう。それに司馬相如は貧乏ではありますが、才能はかなりのものと聞き及んでおりますぞ。県令だって一目置いてる。ここは手を貸してやって、あんな商売からすっぱり足を洗わせてやるのが親というものでしょう」
 説得されて王孫もやむなく、娘に奴僕百人、銭百万と最初の輿入れの時に使った嫁入り道具一式を贈った。相如夫婦は成都に戻って田畑を買い求めて、富豪となったのであった。
 文君を得たことで相如の運も開けることとなった。また、時代も有利に展開した。景帝の亡き後、帝位を継いだ武帝(前140〜前87)は無類の文学好き。この武帝が相如の文才を認めて長安に召し出したのである。武帝の庇護下に相如は思う存分筆を振るうことが出来るようになったのであった。後には武帝の命で西夷(注:西方の異民族)へ使者として赴く途中、臨邱に立ち寄った。相如の出世ぶりを目の当たりにした卓王孫は、娘を嫁がせるのが遅すぎたと嘆いた。そして、文君にふんだんに財産を分け与えてやったのであった。
 相如はもともと糖尿病を患っていた。文君と結婚してから生活が豊かになるにつれ、ますます悪化し、遂には全ての職を辞して陜西(せんせい)の茂陵(もりょう)に隠居した。
 さて、駆け落ちまでして一緒になった二人であったが、茂陵に移って暇になると同時に困ったことが起こった。相如の浮気の虫が疼(うず)き出したのである。隠居生活に入ったばかりの頃、相如は妾を囲おうとした。このことは文君の知るところとなった。文君は取り乱すことなく、今の心情を歌った『白頭吟』という詩に『訣別書』を付けて相如に送った。『白頭吟』は共白髪を願った相手の二心を詰るもので、『訣別書』に至ってはずばり離婚を申し出るものだった。これには相如が驚いた。慌てて文君を引き留め、妾を囲うことを断念した。
 しかし、二人の幸福は長くは続かなかった。それから間もなく相如が亡くなったのである。「相如の病篤し」の消息に接した武帝は相如の著作が散逸することを恐れて、あらかじめ所忠(しょちゅう)という人物を遣わしてその著作を引き取らせようとした。所忠が相如に家に到着した時、すでに相如は亡くなっており、応対に出たのはやつれ果てた文君であった。所忠が著作のありかを問うと、文君はこう言った。
「主人は手元に書き物を残しておりませなんだ。いつも書き物をするたびに、どなたかがご所望になられ、主人は気前よく差し上げておりました。ただ、存命中に一巻を書き上げ、『お使者が参られて私の著作を求めるようなことがあったら、これを渡すように』と申しました。それが残っているだけで他の書き物はもう残っておりません」
 その遺稿は封禅(ほうぜん、注:天子が天地山川を祭る儀式)について論じたもので、文君は所忠に差し出した。これが文君が人前に姿を現した最後であったと思われる。率直に愛に生きた文君である。その愛の対象を失ってしまったら、長くは生きられなかったであろう。

 「当盧売酒」とは酒場で酒を売るという意味で卓文君と司馬相如の故事にちなむ言葉である。
 現在、卓文君の出身地には「文君井」という井戸がある。文君はこの井戸の水を汲んで酒を醸したそうである。文君の白い手が醸した酒、何やらほのかな花の香りでも漂ってきそうだ。