提督の秘密


 

 の同治初年(1862)のことである。
 安徽(あんき)の書生朱某は科挙に向けて勉強していたのだが、二十歳を過ぎても志を得られないでいた。
 理想に燃えていた分、その落胆は大きくなるものである。朱は敗北感を払拭するかのように勉学を放棄すると、軍に身を投じて書記官となった。有能な書記官として数年を過ごすうちに、所属の師団が陜西地方へ移動することになり、異動で陳という提督の指揮下に入ることになった。提督は数多の武勲(ぶくん)を立てて昇進した生粋の軍人という評判であった。
 朱は美貌の青年な上に性質はいたって温柔ということで、提督からいたく目をかけられ、ほかの部下とは別格の扱いを受けた。ただ、時折、提督が思いつめたような視線を投げかけてくるのが、気にかかった。
 ある晩、提督は朱一人を呼び寄せて、酒の相手をさせた。酒が回るうちに提督は朱にしなだれかかり、その腿に手をかけてきた。朱はむげに払いのけることもしかねて、強いて笑顔を見せて部屋に戻る許可を得ようとした。すると、提督は奥にしつらえた寝台へ朱を引いて行こうとした。どうやら提督には衆道の気があるようであった。そのような趣味のない朱は力を尽くして拒んだ。提督はさっと顔を赤らめ、刀を抜いて今にも斬りかかろうとした。そこで、やむなく朱は提督とともに寝台にあがった。
 体をすり寄せてくる提督に触れた朱は驚いた。何と、提督は女であった。しかも処女だったのである。
 この日を境に朱は毎晩のように提督の寝所に召されるようになった。事情を知らない同僚達は朱のことを提督の陰間(かげま)と見なし、軽蔑の色を隠さなかった。
 朱が提督に召されるようになって二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎた。提督は体の不調を訴えるようになり、しばらくすると腹がせり出してきた。これに慌てたのは当の提督である。どうしてよいかわからず、かといって堕胎もはばかられた。
 提督は困り果てて、朱に相談した。朱は花木蘭の例もあることだから特別な処罰を受けることはないだろう、と言って、上官である総督左宗棠(さそうとう)に真実を打ち明けることを勧めた。
 この知らせを受けた総督は仰天した。押しも押されぬ提督の地位に女がついていたのである。総督がただちに朝廷に上奏しようとするのを幕僚が諌めた。
「ことは欺瞞(ぎまん)にかかわります。明らかになれば、閣下が処罰されますぞ」
 総督は幕僚とはかって、一番よいだろうと思われる方策を思いついた。
 朱を陳に改姓させて提督の職務につかせ、当の陳提督はその妻、朱夫人としたのである。陳提督はそれまでの辮髪を解くと、結い上げて釵で飾った。表面上は何の変化もなく、一大事件は表沙汰になることなく解決した。
 後に、朱は新疆(しんきょう)で起きた回族の反乱を鎮圧しに出征した。帰宅した朱は二人の妾を伴っていた。妻である陳は激怒して、家財と子供をつれて甘肅(かんしゅく)へ去った。
 朱と離婚してからの陳は男とも女ともいえない服装で、いつも三人から五人の壮士を率いて狩りにうち興じていた。朱との間にもうけた子供は早く亡くなったため、陳のその後は知られていない。

 多隆阿将軍がが湖南から陜西に入る時に荊子関というところを通りかかった。そこで兵を募ったのだが、その時、志願したのが陳だと言われている。
 浅黒い肌にうっすらとあばたの浮いた大柄な童子で、非常な力持ちであった。最初は飯炊きや馬の世話などの下働きをしていたが、戦場で数多くの手柄を立て、提督まで昇進した。その十年にも及ぶ軍隊生活の中で、陳を女と見破った者は一人もいなかったのである。

(『清朝野史大観』)