禍福


 

 の咸平三年(1000)正月、益州(注:現在の四川省)で一部兵士による反乱が発生し、またたく間に蜀地方一帯に波及した。まもなく反乱を鎮定すべく派遣された政府軍が益州を包囲した。政府軍は北門の外に布陣して、城に向って矢や石を雨のごとく降らせ、益州の反乱軍は篭城を余儀なくされた。
 ここ益州に王という七十歳余りの老婆がいた。たった一人の十四、五歳になる孫が反乱軍に徴発されて城門の守備に当たっていたため、毎日、屯所まで食事を運んでいた。
 ある日のことである。その日は包囲軍からの攻撃もなく、穏やかな一日であった。そのため、反乱軍は城内の妓女を集めて歌や踊りなどの演芸を催し、兵士の慰問を行うことにした。舞台は寺院の門前に設けられた。王婆さんも木に寄りかかって、その模様を眺めていた。
 そこへ一人の兵士がやって来て、こともあろうに王婆さんの真ん前にどっかりと坐り込んだ。でかい図体の兵士に視界を遮られて、王婆さんはムッときた。聞こえよがしに舌打ちをしてみても、兵士は気づかないようである。  何て厚かましいヤツだ、そう思った婆さんは咳払いをしたり、相手の背中に砂をぶつけてみたりした。しかし、兵士はよほど鈍感な性質のようで、いっこうに気づかない。ついにぶち切れた婆さんは、背を向けたままの兵士へ思いつく限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を投げつけた。が、兵士からは何の反応もなかった。まるで何も聞こえていないようである。
 これには王婆さんもあきらめるしかなかった。
「最近の若い者は…」
 王婆さんがブツブツ言いながら立ち上がって、歩き出したその時である。ものすごい音がしたかと思うと、もうもうと土煙が上がった。見れば、自分が寄りかかっていた木がなぎ倒されているではないか。包囲軍が投石器で飛ばした石が、王婆さんが先ほどまで坐っていた場所に命中したのである。くだんの兵士は頭をつぶされて死んでいた。もしも、あのままあの場所に坐っていたら、婆さんの命は間違いなく消し飛んでいた。
 しばらくして反乱軍は壊滅し、城は陥落した。城中の軍民は皆殺しにされ、王婆さん一人だけが生き残った。
 あれから二十年近くの歳月が経ち、王婆さんも今では九十余歳になった。ますます老いぼれ、病がちになり、いつも飢え凍えていた。頼りになる身内は誰一人いないので、草履を編んで何とか糊口をしのいでいた。
 その口癖はこうであった。
「城が包囲されていたあの日、もし大石にぶち当たって命を落としておったら、今日のような貧しい暮らしはしないですんだわいな。どうしてこんなに不幸なのじゃろう」

 そもそも人の生き死にというものには定めがある。子夏(注:孔子の弟子)も言っている。人知を越えたものだと。
 およそ人の貴賎貧富や禍福に遭遇するのには幸と不幸がある。顔子(注:孔子の弟子)は若くして子を亡くしたが、それを、
「不幸なことだ」
 と嘆いた。短命に終ることを不幸と嘆くのだから、本来、長寿は幸福なもののはずである。しかし、王婆さんは貧困に喘ぐ生活の中、おのれの長命を不幸なことと嘆いている。何とも惜しいことではないか。

(宋『茅亭客話』)