うへにさぶらふ御猫は


 

 「うへにさぶらふ御猫は」
 これは我が国の『枕草子』に記された一条天皇寵愛の猫に関する記事の書き出しである。この猫、動物であるにもかかわらず、従五位下の叙せられ、命婦(みょうぶ)と呼ばれるほどの寵愛ぶりであった。
 もちろん中国にも猫命婦はいた。ただ、その趣は少々違うようである。

 萬暦年間(1573〜1620)に宦官劉若愚(りゅうじゃくぐ)の記した『酌中志(しゃくちゅうし)』という書物のダイジェスト版である『明宮史』に面白い記述が見られる。
 これによれば、明代の宮城には「猫児房」という部署があった。文字通り猫の世話をするところで、近侍三、四人が担当していたという。猫といっても普通の猫ではない。おそれおおくも中華全土に君臨する帝の飼い猫、つまり「御猫様」である。時に帝のご寵愛の深い猫は管事の官職を与えられることもあった。
 一般に牡(おす)は「某小厮(シャオス)」、去勢したものならば「某老[父多](ラオディエ)」、牝は「某
頭(ヤァトウ)」と呼ぶ。称号を授かれば「某管事」或いはそのまま「猫管事」と呼ばれ、身分に応じた色々な賜り物がある。
 同じく萬暦年間の『宛署雜記』には、猫の食用として年間七百二十斤(注:約430キログラム)の肉が供されたことが記されている。
 これだけたくさんの猫を飼っていると、時としてトラブルも起きた。歴代の皇子や皇女の内、幼時に猫にびっくりして驚死する者も少なくなかった。この事実に憂え、皇子や皇女がある程度の年齢に育つまで数年の間、宮中で猫を飼うのを取りやめては、と諫言する者もあった。これに対して、
「そもそも祖宗(注:太祖洪武帝)はこう仰せになられた。皇子皇孫は奥深い宮居で養育係だけを相手に世間を知らぬまま育つ。これは皇統を絶やしてはならぬという義務を知らないままになってしまう。やがては寵愛を一人だけに傾け、ほかの女達には見向きもしなくなるだろう。そこで猫や鳩など繁殖力の旺盛な動物を身の回りに置き、宮門に螽斯(しゅうし、注:機織り虫。多産の象徴)、千嬰(せんえい)、百子などと名づければ、これに触発されて皇統も広く永く繁栄しよう。それゆえに宮中で猫を飼うのでありますぞ」
 という反論が出て、この件は沙汰止みとなった。

 では、この御猫様についてのエピソードを『宛署雑記』から一つ。
 明の嘉靖(1522〜1566)初年、宮中に一匹の猫がいた。青みがかった美しい巻き毛を持った黒猫で、ちょうど眉のあたりだけが白かったため「霜眉(そうび)」と呼ばれていた。
 猫特有の物をかじる癖がなく、実に賢くて人の意をよく解した。目で合図するだけで自分から退出し、名前を呼べばすぐに飛んできて踊るような仕草をしてみせた。また、帝の行幸には必ず従い、あたかも一人前の侍従のように振る舞った。帝が昼寝をする時にはその足元で丸くなり、主人が目覚めるまで身動き一つしない。腹が減ろうが、用を足したかろうが、ひたすら我慢する。これもひとえに帝を起こすまいとする気遣いなのである。
 帝は霜眉の心栄えを奇として、新たに「キュウ(注:キュウは虫偏に“叫”のつくりがつく) 龍」という名前を賜った。
 霜眉は帝の寵愛を一身に集めていたが、ある日、帝に向って疲れたような様子で鳴いてみせた。それから、フラリとどこかへ行ってしまった。見つけた時には丸くなって死んでいた。
 霜眉を不憫(ふびん)に思った帝は紫禁城の北にある万歳山(注:現在の景山)の北側に手厚く葬った。破格なことにその塚には勅命で石碑を建てて「キュウ龍墓」と名づけた。