銘酒老龍口(二)
翌日、仙洲は早速、呉秀才を仲立ちとして通り向こうの造り酒屋を買い取る手続きをとった。杜氏(とうじ)や従業員から道具類、材料まで丸ごと引き取ったのである。仙洲は自分の持ち物となった酒屋を取り巻く環境に改めて目をやった。東は兵営に面し、西は市場になっていた。北は空き地だが、そこには馬の飼料になる草が植えられている。その隣は寺である。
仙洲の見る限り、立地条件は悪くはなかった。むしろ最上といってもよかった。従業員の態度もよいし、道具だって揃っている。これだけ条件が揃っていて、なぜこの酒屋は繁盛しなかったのだろう。仙洲の疑問は井戸の水を一口飲んだ途端、解けた。水は苦くて渋かった。酒の命の水がこれでは芳醇な酒など造れるはずがなかった。これでは売れないはずである。
別の井戸を掘ろうかとも思ったが、杜氏や近所の者の話によるとこの周辺数十里はどこも苦い水しか出ないとのこと。ならばもっと深く掘れば何とかなるかと思えば、この酒屋の井戸はどんなに深く掘っても、苦い水しか出てこなかったと聞かされ、仙洲は早くも己の短慮を後悔した。酒屋を営もうにもこれでは無理ではないか。買い取って早々に商売替えすることを考えなければならなくなったのである。しかし、それには金がかかった。手持ちの金はこの使えない酒屋を買い取るのにはたいてしまった。この盛京で頼れるのは、商売に関してずぶの素人で書物はあるが金のない伯父一家だけ、事実上の孤立無援であった。
造り酒屋を買い取ってからというもの、仙洲はその濃い眉をギュッと寄せて物思いに沈んだ。寝食もそっちのけで、買い取った酒屋をどうするべきか考え込んでいたのである。
呉秀才は甥が気鬱のあまり体を壊すのではないかと心配になった。そこで娘の小鳳に命じて甥を街へ連れ出して気晴らしをさせることにした。
小鳳と仙洲は連れ立って小東門から盛京城内に入ると、四平街を見て歩いた。四平街は盛京一の繁華街で、休日ということもあって沢山の人でごった返していた。仙
洲は小鳳のシャキッと伸びた背を見ながら歩いた。盛京にはこれほどたくさん人がいて、いくらでも商売のチャンスに出会えるのに、よりによって自分はあんな使えない酒屋を買い取ってしまったのである。仙洲の気持ちはますます暗くなった。その時、
「仙洲兄、仙洲兄ではありませんか?」
突然、仙洲の上着の袖を引っ張る者がある。振り返ると、白い絹の長衣を着た二十歳余りの若者が満面に笑みを浮かべて立っていた。仙洲は、この瀟洒(しょうしゃ)な若者に見覚えがあるようなのだが、誰なのか思い出せなかった。そこで、こちらも腰を低くして笑いかけた。
「いやはや、失礼いたしました。えっと、あなたは…」
すると、若者は、
「憶えていらっしゃるでしょうか。私ですよ、敖(ごう)ですよ。思い出してもらえますか?」
若者に名乗られて仙洲はハッとした。
「敖殿でしたか。立派な身なりをなさっておられたので、見違えましたぞ。いつ、そんなに羽振りがよくなられたので?」
話は少し遡(さかのぼ)る。山西から盛京に来る途中、仙洲は山海関の宿屋で一人の貧しい学生が部屋代を払えず、宿の小僧に罵られているのを見かけた。気の毒に思った仙洲は学生の部屋代を払ってやった上に、食事までおごってやった。学生は敖と名乗り、遼北(りょうほく)の出身で科挙試験を受けに北京に行ったが落第してしまった。仕方なく帰宅する途中、この宿に泊まったところ、病に臥せる身となり進もうにも進めなくなった。一月も経つ内に、持参した金を使い果たしてしまい、部屋代にも事欠く身となってしまったとのことであった。話してみると非常に洒脱(しゃだつ)な人物で、すこぶるうまが合う。そこで、仙洲は敖学生の生活の面倒を見る代わりに、盛京までの道案内を頼んだのであった。盛京に到着してから、二人はそれぞれ親戚を訪ねるということで別れた。確か敖学生は瀋水の畔(ほとり)に住む親戚を訪ねると言っていた。仙洲は敖学生と再会できるとは思ってもみなかったし、また敖学生の身なりがあまりにも立派になっていたので、見違えてしまったのであった。すっかり嬉しくなった仙洲は敖学生を呉秀才の家に連れて帰ることにした。
呉秀才は甥の連れて来た友人を歓待した。敖学生は容姿、挙措(きょそ)ともに申し分ないだけでなく、学識豊かであったので呉秀才ともすこぶる話が弾んだ。呉秀才は乏しい財布をはたいて、敖学生をもてなした。いつもは質素な食事しか並ばない呉家の食卓に、酒や肉料理が運び込まれた。
盃の応酬の回数もわからなくなった頃、敖学生が仙洲に盃を捧げながら言った。
「仙洲兄、何か心配事でもおありですか?心ここにあらずという風ですな」
仙洲は問われて、大きくため息をついた。
「憂いというものは隠しおおせるものではありませんな」
そして、自分の買い取った造り酒屋のことを話して聞かせた。話を聞いた敖学生は、のけぞって笑い出した。
「なあんだ、そんなことですか。それならご心配には及びませんよ」
そう言って胸をポンと叩いた。