洛陽三怪記(二)


 

 松は驚きのあまり貧血を起こしそうになった。それを見て春春がまたも促す。
「若旦はん、気い失っとる場合やありまへんえ、早う、早う!」
 そう急かされて潘松は跳び上がるなり腕を振り回しながらがむしゃらに駆出した。築山を転がり下り、門を飛び出し、小川の丸木橋を飛び越え、でこぼこのあぜ道を走り抜け、もと来た大通りに転がり出た。
「ひゃあ、くわばら、くわばら。死んだはずの春春がなんでおるんや、真っ昼間から幽霊に会うてしもうたわ」
 そう言いながら駆け続けた。前方に一軒の居酒屋が見え、ちょうど旧知の徐守真という天応観の道士が出て来るところであった。守真が会節園の方に目をやると潘松が土埃を上げながらものすごい勢いで走ってくる。
「ぼん、どないしたんや?」
 守真が声を掛けた時には、もう潘松は駆け抜けていた。急停止した潘松は戻ってくると、
「徐はん、ここで何してはるんです?」
 と尋ねた。守真は、
「今日は天気がええんで会節園へ花見に行っとったんや。ぼんは?なしてそないに走りよんや」
「えらい目に遭うところでしたわ、もうちいとで命をなくしてまうところでした」
 そう言って、潘松はたった今自分が経験した怪事を説明した。守真は話を聞き終わると、
「ふうむ、実はワシは妖魔の調伏を専門にしよるんだわ。これはちょっくら、一緒に見に行ってみましょうかいの」
 ということで二人は廃園へと向うことにした。あぜ道に入ってしばらく行くと、
「徐はん、あそこです、見えまっかいな?」
 潘松は低い塀を指差して言った。
「ほら、あそこですわ、ミソサザイが二羽、瓦の上で喧嘩しよるわ。あ、一羽は隙間から中に入ってもうた。ちょっと捕まえてきますわ」
 前を行く守真には潘松の言葉が聞こえていないようで振り向く気配がない。潘松がそのまま塀に近寄って手をかけた時である。誰かに背中を押されたような気がした。そのまま前のめりになるなり、意識が遠のいた…。
 前を歩いていた守真が振り向いてみると、そこに潘松の姿はなかった。
「ぼん、あれ、おらんわ。どこ行ったんやろ…何か思い出して先に帰ってもうたんかなあ」
 と首をひねりながら帰ってしまった。

 さて、潘松の方は気が付くと先ほどの廃園の亭に一人ぽつねんと坐っていた。目の前では老婆がニコニコ笑いながら、
「さっきは待っといて言うたのに、なしてさっさと行ってしもうたんかいな?ええお話があるんどっせ、ここで待っといてや」
 潘松はじっと考え込んでから、
「ええ、お構いなくどうぞ」
 と答えた。隙を見て逃げ出そうと思ったのである。老婆は潘松を残して行きかけたが、すぐに戻ってきて、
「御寮はんがお呼びになった時に、またおらんようなったらうちが叱られるわ」
 と言うと鶏を入れる大きな籠を取り出してスッポリと潘松にかぶせた。そして、帯で結び目を三個作ってから、籠に息を吹きかけて行ってしまった。閉じ込められた潘松は懸命に籠を持ち上げようとするのだがどうしたことかびくともしない。しばらくして老婆が少女を連れて戻ってきた。少女が、
「若旦はんは?」
 ときくのに老婆が、
「応接間でお待ちですえ」
 と答えるのを聞いて潘松は、
「これのどこが応接間かいな?」
 と一人でぼやいた。老婆は帯の結び目を解くと、指で籠を引っかけて持ち上げた。あんなに持ち上がらなかった籠が簡単に動いた。青衣の少女が手を差し入れて潘松を引っ張り出し、そのまま急き立てて奥殿へと連れて行った。奥殿は金の飾りを打ち付けた丹塗りの扉に瑠璃の瓦、彫刻を施した欄干に玉の階、と素晴らしいしつらえで、神仙の住まいでなければ王者の宮殿のようであった。
 老婆が潘松の手を引いて中へ通ると白衣の女が出迎えた。豊かな黒髪を高々と結い上げたゾクッとするような美女である。
「御寮はんどっせ」
 老婆は潘松を女に引き合わせ、それぞれ席についた。ほどなくして酒や料理が運ばれ、青衣の少女が料理や酒を勧めた。
 少女の一人が潘松に酒を注いでくれたので一杯飲んでから、女の姓名を尋ねた。その時、にわかに外が騒がしくなり、一人の男が入って来た。真っ黒な顔で眼光が鋭く、それだけでも恐ろしげなのに、もっと恐ろしいことに紅い長衣を纏って矛を手にしている。男は満面に怒気をみなぎらせて進み出ると言った。
「御寮はん、今度はどなたはんと宴会ですか?また、白聖母が誰かたぶらかして連れこんだんかいな。ワシにあまり面倒をかけんといてくれなはれ」
 婦人は愛想よく男を迎えたが、潘松は怖くてたまらない。そこで女に尋ねた。
「あの…どなたはんですか?」
「赤土大王はんどっせ」
 それから赤土大王も加えて、改めて酒を酌み交わした。二、三杯ひっかけると大王は時間も遅いから、と辞去した。いつのまにか老婆や少女達もいなくなっていた。
 女は潘松に酒を勧めながら、
「ばあやがお骨折りしてあんたはんをここに連れて来てくれました。うちはあんたはんと夫婦(めおと)になりとうおまっせ」
 と言い出した。潘松はビックリしてうつむいてしまい返事をすることもできない。女は潘松の承知不承知にお構いなくその手を取ると、席の後ろの寝室へと引きずっていった。そこには紗の帳をめぐらした寝台がしつらえてあった。女は帳中に潘松を引きずり込んで手管を尽くすのだが、潘松の方は恐ろしくてしょうがない。とりあえず女の言うがままに衣装を解いて帳を下ろしたが、その後のことは楽しいものではなかった。
 女は三更(注:午前零時)過ぎまで潘松に纏わりついていたが、起き上がると身じまいを整えて寝台を下り、そのままどこかへ行ってしまった。潘松が帳から頭を覗かせると、目の前に春春が立っていた。春春が声を低めて、
「若旦はん、またなんでこちらに?これをご覧になったらいやでも逃げとうなりまっせ」
 と言って、潘松を忍び足で戸の側まで来させて隙間から様子を窺わせた。見ると、一人の男が柱に縛り付けられている。男の前には老婆が包丁を手にして顔中口になったかのようにニヤニヤ笑って立っていた。老婆は男の着物の前をグイッと開くと包丁を胸にズブリと刺した。そして、そのまま一気に腹まで引き裂いた。
(アワワ…)
 叫びそうになった潘松は手で口を押さえてこらえた。老婆は血まみれの包丁を口にくわえると、両手を切り口につっこんで肝をつかみ出した。血のしたたる肝を手に、老婆はウットリと笑みを浮かべてその匂いをかいだ。潘松は震える声で春春に尋ねた。
「あれは誰や?」
「数日前にばあやが連れて来はったんです。宴会を開いて御寮はんと夫婦にならはりました。若旦はんと同じですわ。その時も前に連れ込まれた人が殺されはりましたわ」
 そう聞いて潘松はガクガク震え出した。逃げたくとも足が動かない。
「どないしよ…」
 その時、女が戻って来る気配がしたので潘松は慌てて寝台に飛び込んで寝たふりをした。間もなく老婆も入って来た。老婆は潘松が眠っているのを見ると、
「御寮はん、おめでたをお祝いしてもう一度飲み直しましょか」
 と言って先ほどの肝を皿に盛って持って来て、二人で肝を肴に酒を酌み交わし始めた。

 

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