雪災


 

 光二十年(1840)十一月、江蘇から浙江にかけて大雪に見舞われた。平地でも四、五尺、山間部にいたっては一丈を越すほどであった。湖や水路はすべて凍結し、解けたのは明くる年の正月になってからであった。
 湖州安吉山中に寺があった。寺には僧侶が四人いたのだが、そのうちの一人が雪の降り始めに托鉢のために山を下りた。いざ寺に戻ろうとした時には、道が雪に閉ざされて戻ることができない。雪が解けてようやく寺に戻った時には、残った三人の僧侶は餓死していた。
 太湖では航行中の一艘の船が氷に閉じ込められてしまった。一ヶ月経って氷が解け、船は流れに乗って岸に漂着した。船内では乗員全てが餓死していた。不思議なことに甕の中にはまだ半分ほど米があった。おそらく火種が尽きて炊事をすることができず、飢え死にしたのであろう。

 この年、この他にも雪害による惨事が数多く報告された。中でも特に悲惨だったのは陳春嘘(ちんしゅんきょ)の例であろう。
 陳春嘘は奉天の錦県知事を務めた人であった。陳家で嫁を迎えることになったのだが、その日は大雪に見舞われた。山を一つ越えるだけだから、とさほど心配はしなかったが、雪はどんどん降り積もり、待てど暮せど花嫁の一行は到着しなかった。
 一ヵ月後、ようやく雪が解け、両家で人を四方に派遣して花嫁一行の行方を探したところ、山中の古廟の中で花嫁とその付き添いの七十人余りが飢え死にしているのを発見した。おそらく花嫁一行は大雪で前進することができなくなり、途中、古廟に雪を避けたのが、そのまま雪に降り込められたものと思われた。陳春嘘が身元確認したのだが、悲惨なものであった。

 咸豐十一年(1861)十二月、太平天国軍が杭州を陥とし、その一帯は掠奪の脅威にさらされた。ちょうどその時、にわかに大雪が降り出したかと思うと、みるみる積もって六、七尺の深さになった。太平天国軍は身動きがとれず、避難民はその隙に逃げ出すことができた。
 これは雪のもたらした幸運といえよう。

(『清朝野史大観』)