儀光襌師(前編)


 

 安青龍寺の儀光襌師(ぎこうぜんし)が入滅した。唐の開元二十三年(735)六月二十三日のことであった。

 襌師は皇族の一員に生まれついた。父は瑯邪(ろうや)王李冲(りちゅう)である。李冲は父の越王貞とともに嗣聖五年(688)に則天武后に対して挙兵し、敗死した。一族は皆殺しにされたのだが、赤子だった襌師は乳母が抱いて逃げたため、生き延びることができた。数年後、瑯邪王の忘れ形見が生きていることを知った則天武后は莫大な懸賞金をかけて探し求めた。乳母は厳しい探索の手をかいくぐり、襌師を連れて岐州(きしゅう、注:陝西省西部)へ逃れた。お針子や洗濯女などをして襌師を育てた。
 襌師はもう八歳になっていたのだが、その聡明さと美貌は凡人を凌駕(りょうが)していた。乳母はその美貌ゆえに襌師の身元が明らかになることを恐れた。そして、ついにある決心をつけた。まとまった銭を手に入れるために急ぎの縫い物の仕事を入れ、それで得た報酬の銭二百を襌師の下穿きに収めると、野原に連れて行った。そして、襌師にその出自を説いて聞かせた。
「若様、私があなた様をお育てしてもう八年になります。追っ手から身を隠して各地をくまなくさまよいました。あなた様ももう大きくなられましたが、天后(注:則天武后のこと)の追及は日に日に厳しくなっております。もしもご身分が明らかになれば、あなた様も私も生きてはいられません。幸い、若様はご聡明であらせられます。お一人でもご立派に生きていけましょう。私とはこれでお別れです」
 乳母はそう言うと、泣きながら立ち去った。一人残された襌師は泣いた。親族の死に様を思って泣き、己の行く末を案じて泣いた。そして、乳母を恋い慕って泣いた。しかし、どんなに泣いても乳母は戻ってこなかった。
 涙を収めた襌師はどうしてよいかわからなかった。そこで、ひとまず街道に出て歩くうちに一軒の旅籠(はたご)にたどりついた。その前で子供達が遊んでいたので自分も混じって遊んだ。
 たまたま郡守の夫人が夫の任地へ赴く途中、この旅籠に宿を取っていた。夫人は子供達と遊ぶ襌師の姿に目をとめた。その愛くるしい容貌を憐れに思った夫人は襌師を呼び寄せてたずねた。
「坊や、おうちはどこ?どうして一人でこんなところにいるの?」
 襌師はこう答えた。
「近くの村に住んでるの。時々、こうして遊ぶんだよ」
 これは身元が明らかになるのを恐れてついたウソであった。夫人は襌師に食事をご馳走してくれ、また銭を五百くれた。襌師はこの大金を人に盗られることを恐れ、下穿きの中にしまった。
 夫人のもとを辞したのは、かなり遅くなってからであった。野宿をしようと思い、手頃な場所を物色しているところへ一人の年老いた僧が通りかかった。老僧は襌師の姿を見るなりこんなことを言い出した。
「坊や、お前さんは今や一人きりだ。家だってもうない。これからどうする気なのだ?」
 自分の正体を言い当てられて襌師は仰天して立ち尽くした。僧はかまわず続けた。
「仏門は広大無辺で憂いも恐れもない。坊や、仏門に入る気はないかね?」
「それこそ私の願うところです」
 襌師は答えた。老僧は襌師の手を引いて桑の木の下に連れて行くと、十方の諸仏に拝礼させた。そして、その髪を剃り落とし、袈裟に着替えさせた。不思議なことにその袈裟は襌師の小さな体にピッタリであった。立派な小和尚に変身した襌師に老僧は喜んだ。
「やはり見込み通りだわい」
 そして、東北を指差して言った。
「ここから数里ほど先に伽藍(がらん)がある。そこへ行ってこう申すのじゃ。『我は汝を我が弟子とせり』とな」
 そう言ったかと思うと、老僧の姿は消えていた。老僧が仏の化身であったことを知った。
 老僧の言葉通りに東北に道を取ると、果たして寺があった。話を聞いた寺主の僧侶はその不思議に感じ入り、襌師を寺で修行させることにした。襌師はこの寺で多くの経典や戒律に通暁(つうぎょう)し、静かに瞑想に耽る日々を送ることとなった。

 則天武后が唐の皇統に帝位を返還したのは、襌師の出家の十年後にあたる神龍元年(705)のことであった。

 

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