玉の髑髏


 

 宋の晏元献(あんげんけん)が長安の太守だった時のことである。管轄下の村の富豪が財産分けをすることになり、元献にこのようなことを依頼してきた。
 日頃から玉の髑髏を拝んでいたおかげで、巨富をなすことができた。このたびの分家に際して、この髑髏を兄弟で分けたいので、太守に幾つかに割ってもらいたい、と言うのである。
 元献が髑髏を手にとって仔細に眺めてみると、額から左右にかけてすべて玉でできていた。その珍奇なこといまだかつて見たことがなかった。元献はウ〜ムと唸るなり、こう言った。
「これは華州蒲城県(注:現陜西省)にある唐明皇(注:唐の玄宗皇帝のこと)の泰陵から出たものではあるまいか」
 その者の答えるところによると、確かに先祖がかの地で得たとのことであった。元献は部下達に向って説明した。
「唐の小説によると、玄宗は上皇となってから西の御所に移ったのだが、宰相李林甫(りりんぽ)は刺客を放って命を奪おうとした。刺客がぐっすり寝込んでいる玄宗の頭に鉄鎚(てっつい)を幾つか喰らわせところ、石を叩くような音が響いた。玄宗はその音に驚いて目を覚まし、刺客の姿を認めるとこう言った。
『朕がお前の手にかかって命を落とすことはもとより承知じゃ。じゃがな、かねてから道士の葉法善(しょうほうぜん)に勧められて玉を服しておるゆえ、朕の頭蓋骨は全部玉になっておる。それに法善の勧めで金丹ものんでおるぞ。首のあたりにあるかな。そういうわけで簡単には死なぬのじゃ。さあ、朕の頭を割って金丹を取り出すがよい。さすれば、死ぬことができる』
 刺客がその言葉どおりに金丹を取り出すと、玄宗は絶命したという。孫光憲(そんこうけん)の『続通録』にもこうある。臨終に際して玄宗が、
『上帝が朕を孔昇真人(こうしょうしんじん)になされたもうた』
 と言うと、爆発する音がした。見ると、もう死んでいたそうだ。先の話とどことなく似ているではないか。となると、これは本物の玄宗の髑髏であろうな」
 元献はひそかにこの髑髏を泰陵に埋めなおさせた。こうして粛宗の罪は明るみになった。

 一説によると粛宗は武乙のような死に方(注:殷の武乙は天を侮り、雷に打たれて死んだ)をしたという。あながち嘘ではあるまい。

(宋『黙記』)

※唐の粛宗の臨終の時、皇后の張氏がクーデターを企てて失敗。助けを求めて粛宗の寝室に逃げ込みますが、すでに粛宗の意識は混濁していました。その崩御とともに張氏も殺されました。この話は李林甫の玄宗暗殺未遂は粛宗の命によるものという風説を踏まえたものだそうです。