とりかえばや


 

 靖年間(1522〜1566)のことである。
 崑山(こんざん、注:現江蘇省)の民家で息子のために嫁を迎えることとなった。しかし、婚礼を前に肝心の新郎が病床に臥す身となってしまった。
 この地方には沖喜(ちゅうき)という縁起直しの風習があった。凶事の際に祝い事を行なって凶事を消し去ろうというものである。新郎側では病を隠して花嫁を迎え、沖喜を行なおうとした。
 しかし、花嫁の家の方でもすでに新郎病むとの情報を得ており、おいそれとは従わない。何度か押し問答をした末、花嫁側は一策を講じた。何と花嫁の弟に女装させて身代わりを務めさせようというのである。
 新郎側はそのようなからくりがあるなどとは夢にも思わず、ニセ花嫁を迎えるや早々に婚礼を執り行う。そして、
「息子は病気だから床入りは延期だ。他家で一人で寝るのは寂しかろう。妹に話相手をさせるから我慢しておくれ」
 と言って、妹娘をニセ花嫁の寝室に送り込んだ。
 沖喜の効果が出たのか、婚礼から一月もすると新郎の病は回復した。花嫁の実家では事が露見するのを恐れ、里帰りにことよせてニセ花嫁を呼び戻した。これで弟を身代わりに立てたことは、誰も知らないはずであった。

 しばらくすると新郎の家で大騒動が持ち上がった。未婚の妹娘が妊娠したのである。相手は誰かと問い詰められて、妹娘は答えた。
「お姉さまです」
「何をバカな!女に孕ませることなどできるはずなかろう」
「お姉さまは男だったのよ」
 新郎の両親は花嫁の家を訴えた。
 この訴訟は長びき、何年にもわたったが、葉御史が、
「双方、娘を嫁がせ嫁を迎え、嫁を迎えて婿を取るのだ。そうすれば、どちらの顔も立つであろう」
 と判決を下した。長年の係争にようやく決着がついた。

(明『情史』)