討伐始末


 

 宝年間(742〜756)初め、河西節度使の安思順が五色の玉帯を献上してきた。また、宮中の左蔵庫から五色の玉が出てきた。このことを知った玄宗皇帝はこう言った。
「そういえば近頃、西方から五色の玉を献上してこぬぞ」
 そして、安西都護府管下の諸蛮族をとがめさせた。諸蛮族の答えるには、
「常に進貢しておりますが、途中で小勃律(しょうぼつりつ)に略奪されてしまうので、届かないのです」
 とのことであった。帝は小勃律の無道に怒り、早速、討伐軍を派遣しようとした。しかし、群臣のほとんどが討伐には反対で、言葉を尽くして帝を諌(いさ)めた。ただ、李林甫(りりんぽ)だけが帝を支持し、
「武臣の王天運が知勇謀略にたけており、将たる器にございます」
 と進言した。そこで、帝は王天運に四万の兵を授けたが、その中には諸蛮族の兵も含まれていた。
 王天運率いる大軍が小勃律の城下に迫ると、小勃律の君長はすくみあがって謝罪した。城内に所蔵するあらゆる宝玉を献上し、毎年、貢物を献上す る、と申し出た。しかし、王天運はこの申し出を無視して、城をひともみに全滅させた。そして、捕虜三千人と珠玉を分捕って帰路についた。
 小勃律に一人の術者がおり、それがこのようなことを言った。
「王天運将軍は無義不祥なり。天、まさに吹雪を起こすであろう」
 果たして、数百里ほど行くと、突然、四方から風が吹きつけ、すさまじい吹雪に襲われた。冷たい風が湖に大波を起こし、波は氷の柱と化しては砕け散った。半日も経つと、冷え切った湖の水は見る見る増し、四万の軍勢に襲いかかった。四万の大軍は蛮族一人と漢人一人をのぞいて、いっぺんに凍死した。
 命からがら帰還した生存者は帝に事情を上奏した。帝は大いに驚き、早速、生存者とともに使者を派遣して確かめに行かせた。
 一行が湖のそばまで来ると、氷の柱が山のようにそびえていた。驚くべきことに氷の中には兵士達の屍(しかばね)が閉じ込められていた。立ったままの者、坐っている者などすべて確認することができた。
 使者が引き返そうとしたその時、突然、氷が溶け、屍もろとも消えてしまった。

(唐『酉陽雑俎』)