毒きのこ


 

 のこの類は暗くて湿っぽいところに生え、蛇の毒気を含んでいる場合もあるので、そのまま食べたならばたちどころに中(あた)ってしまう。しかし、物好きどもは大事な体を台無しにしてでも味わってみようとし、その危険を冒すことを何とも思わない。
 近頃、きのこにまつわる事件を二つ耳にしたので、ここに記して戒めとしたい。

 嘉定八年(1215)、楊和王の墳墓の近くにある感慈庵(かんじあん)の徳明という僧侶が遊山(ゆさん)の折、珍しいきのこを見つけた。徳明はこのきのこを持ち帰って粥(かゆ)を作り、同輩等とともに食べた。粥を食べた者は毒に中り、十数人もが命を落とした。徳明は毒に中ってすぐに糞を舐めたため、死なずにすんだ。
 この時、定心(じょうしん)という日本の僧侶がいたのだが、糞を舐めることをいさぎよしとせず、体中の皮膚が裂けて亡くなった。
 感慈庵には今もなお、日本の度牒(どちょう、僧侶に与えられる証明書)が残されている。度牒には久安(1145〜1150)、保安(1120〜1123)、治象(不明)などの年号と、法勢大和尚、威儀、従儀、少属、少録などの僧侶の位階が記されていた。これによれば、定心が僧侶となった年、かの国では一万人もが得度(とくど)したそうである。
 定心の姓は平氏、日本国京東路相州行香県上守郷光勝寺(神奈川県厚木市に同名の寺あり)の僧侶であった。

 咸淳八年(1272)、臨安(現在の杭州)鮑生姜巷(ほうせいきょうこう)の住民が郊外に出た折、大きなきのこを見つけた。持ち帰って吸い物を作り、家族で食べた。
 その夜、隣家の住人は奇妙な物音で目を覚ました。何かが壁にぶつかるような音がしばらく続き、やがて静かになった。何か事件が起きたのかと思った隣家では近所の人を集めて、その家へ様子を見に入った。すると、夫婦と娘が血を吐き、ある者は壁に寄りかかり、ある者は柱に抱きついて死んでいた。
 食卓には吸い物が一杯手つかずのまま残されていた。出かけている息子のために残しておいたもののようだが、幸いまだ戻って来ていなかったので、命拾いをした。

 きのこにはくれぐれも気をつけるべし。

(宋『癸辛雑識』)