三官の神


 

 川(りんせん、現江西省)の呉甲は貴州で商いをしていた。長く滞在するうちに、地元の娘とねんごろな仲になった。
 ある日、娘がこのようなことを言い出した。
「若様のお宅はここから数千里も離れているわ。お宅に戻ったら、きっと別に奥様をおもらいになるのね。あたしは秋の落ち葉のように捨てられてしまうんだわ」
 呉甲は、
「僕は戻ってからも君のことは忘れない。もう一度戻って来るよ。その時には正式な妻として迎えるつもりだ。どうしてそんなことを言うんだい?」
 と言って慰めたのだが、娘はただただ泣くばかりであった。呉甲はそこでこう言った。
「そんなに疑うのなら、誓いを立てよう」
 娘は涙を納めて問い返した。
「本当?」
「本当だ」
「なら、三官の神様に誓って下さい」
 三官の神は霊験あらたかで、地元の人々の厚い信仰を集めていた。娘は呉甲とともに三官廟を詣でると、香を焚いた。
「男某、女某、親の許しなく夫婦の契りを結びました。ゆくゆくは正式な夫婦となるつもりです。千里離れようとも心は一つ、死んでは同じ墓に葬られることをここに誓います。もしもこの誓いを破ることがありましたら、命を奪われようとも恨みはいたしません」
 誓いを立ててからというもの、二人の情愛はますます深まった。
 呉甲が駆け落ちを持ちかけると、娘は首を横に振った。
「そんなことできないわ。ここには若様と同郷の人達がたくさんいるのよ。父とも親しくしているわ。父はあなたには一目置いているの。もし同郷のどなたかに媒酌を頼んで、きちんと手順を踏んで結婚を申し込んでくれたら、すべてうまくいくと思うんだけど。何もわざわざ人に後ろ指をさされるようなことをする必要もないでしょう」
「そうできたらどんなにいいか!実は、先日、父が手紙を寄越して来たんだ。何か用があるらしくて、僕に戻って来いと書いてあった。父は厳しい人だ、言いつけに背くわけにはいかない。一年は戻って来られないと思う。おそらく、父は僕の縁談を整えているだろう。それでもいいのかい?」
「いいわ、あたし、待ちます」

 旅立ちの前の晩、娘は呉甲のもとを訪れた。
「あの誓いを忘れないで下さい。あたしは決して破りませんから。早く若様と一緒になりたい。一日でも長くおそばにいたい。若様、時期を見計らって縁談を申し込んで下さい。そうして下されば、泥沼に骸(むくろ)をさらすことになろうとも恨みには思いません」
「もう媒酌人を頼んである。君は安心していていいよ。僕も段取りがついたらすぐに戻るからね」
 そう言って、二人は涙ながらに別れた。

 呉甲が臨川に戻ると、果たして父が封氏との縁談を整えて待っていた。呉甲はむろん不本意であったが、父を畏れはばかっていたので断ることはできなかった。着々と婚礼の準備が進む中、貴州から手紙が届いた。
「例の話はまとめておいた。父親の方は快諾してくれた。君が戻り次第祝言を挙げることになっている。一日も早く戻ってくれ」
 媒酌を頼んでおいた同郷の者からの手紙であった。
 呉甲は途方にくれた。封氏との婚礼の準備がここまで進んだ中で、父がこのことを知ったら自分は勘当されるかもしれない。そんなことにうなったら、どうやって暮らしていけばよいのか……。
 呉甲は貴州の娘のことを忘れることにした。今後、二度と貴州には足を踏み入れまい。いつまで自分が戻らなければ、娘の方でもあきらめてくれるだろう。その方がお互いのためだ。呉甲はそう決心をつけ、封氏との婚礼に臨むことにした。

 婚礼の三日前、祖廟に生け贄を捧げ、先祖へ結婚の報告をすることになった。屠殺人が牛刀を手に生け贄の肉をさばこうとしたその時である。突然、南から三つの人影が飛び込んで来た。
 いずれも容貌魁偉(ようぼうかいい)であった。三人は呉甲の腕をつかみ、
「汝、誓いを破ったな」
 と言うと、屠殺人から牛刀をひったくった。そして、呉甲の一物を切って地面に投げ捨て、そのまま姿を消した。
 すべては一瞬のことで、誰にも止める暇はなかった。呉甲は傷口からおびただしく出血し、何度も昏倒(こんとう)した。半年近く経ってようやく傷は癒えたのだが、役立たずになってしまった。こうなっては結婚することもできなくなり、封氏はよそへ嫁いだ。
 後に両親が亡くなり、家業は衰えていく一方であった。呉甲はあれ以来、すっかり健康を損ねてしまったので、遠くへ商いに出ることもできず、ただ売り食いをするばかりであった。六十を過ぎた頃には乞食にまで落ちぶれ、瓢(ひさご)をぶら下げて方々を物乞いして回った。子供達はその姿を見ると、口々にはやし立てた。

 やがて、傷口が腐って死んでしまった。

(清『耳食録』)