靺鞨の宝


 

 章武(りしょうぶ)は字を飛卿(ひけい)といい、その先祖は中山(現河北省)の人であった。生まれながらにして聡明で飲み込みが早かったので、どんなことでもこなせた。また、文章にも巧みであった。道義を広めようと自ら志し、うわべを飾り立てることを嫌った。彼自身は上品で美しい風采の持ち主で、人当たりはおだやかだったので、多くの人に慕われた。

 清河(せいか、現河北省)の崔信(さいしん)と親交があったのだが、この人も風雅(ふうが)の士で、骨董(こっとう)を数多く集めていた。章武の博識(はくしき)を見込んで、よく訪れては骨董のついて語り合った。章武の知識は豊かで物事の本質を言い当てることができたので、人々は彼のことを、晋の博物学者張華(ちょうか)の再来と見なした。


 貞元三年(787)、崔信が華州(かしゅう、現陝西省)の別駕(べつが)に任じられた。章武は長安から華州へ崔信を訪ねて行った。華州に滞在して数日後、街中を散策した。足の向くまま街の北の方へ行ってみた。章武はそこで一人の美しい女を見かけた。章武は女の家を確かめてから、崔信の邸に戻った。

「州外の知人と会わなければならなくなったから」

 崔信にはそう言って、女の家に間借りすることにした。後で知ったのだが、この家の主人は王といい、女はその息子の妻であった。ほどなくして、章武と女は人目を忍ぶ仲となった。一月あまりの間に章武は女のために三万あまりも費やしたが、女が費やした金額はその倍であった。

 逢瀬(おうせ)を重ねれば重ねるほど、情は細やかになり、二人の心は離れがたくなった。やがて、章武は長安へ戻ることとなった。仕事を持つ身のこと、それは当然のことであった。章武は女に長安へ戻ることを告げた。章武は別れの言葉の代わりに、首を交える鴛鴦(おしどり)を織り出したあやぎぬ一反に詩を添えて贈った。女は白玉の指輪を一つ、これも詩を添えて贈った。

 章武には楊果(ようか)という下僕がいたが、女はこれにも銭一千を贈った。

「旦那様のお世話を頼みますよ」

 女は涙を浮かべて言った。

 章武はすぐにでも華州へ女を訪ねるつもりであったが、なかなかその機会がなかった。そうして便りを交わすすべもないまま、八、九年が過ぎた。


 貞元十一年(795)、章武は下[圭邑](かけい)県に寓居(ぐうきょ)する友人の張元宗(ちょうげんそう)を訪ねることにした。その途中、ふと華州の女のことを思い出した。そこで、馬車を回して渭水(いすい)を渡り、華州へ向かった。華州に着いた時には、すでに日は西に傾いていた。

 女の家で部屋を借りようと訪れたところ、外に来客用の長椅子が置いてあるだけでひっそりと静まり返っていた。もしかしたら貸し家をやめて農業でも始めて畑に出ているのかもしれない、さもなければ親戚でも訪ねに行っているのだろう、章武はそう思った。そこで、しばらく門口で待ってから、ほかに宿を探すことにした。

 その時、東隣の家から女房が出てきたので、王の家族がどこへ行ったのかたずねた。

「王さんなら今では貸し家をやめて、息子さんと一緒によそへ出ておいでですよ」

 息子の妻のことをきくと、女房は目を伏せて答えた。

「亡くなって、もう二年になります」

 章武がもっと詳しく話してくれと頼むと、

「私は楊六娘(ようろくじょう)と申します。あなたのお名前は?」

 ときいてきた。章武が名乗ると、

「楊果という名の下僕を召し使っていたことがありますか?」

 と言う。章武が、ある、と答えたところ、六娘は涙を落として言った。

「私がここへ嫁いで来て五年になりますが、王さんの若奥さんとは仲良くしていただいておりました。あなたのことは若奥さんからきいております」

 女は六娘とかなり打ち解けた話もしていた。

「私の家は貸し家のようなことをしているでしょ、今までにたくさんの人と会ったわ。私に気のある人もかなりいて、皆、有り金をはたいて贈り物をしたり、甘い言葉をささやいたりして私の気を引こうとしていたけれど、全然相手になんてしなかったわ。ある年、李の若様がうちにいらしたの。私、一目で好きになってしまったわ。私の方からお部屋へ忍んで行くようになって、ずいぶんとお情けを受けたのよ。お別れしてから何年にもなるけれど、李の若様のことが思い出されてならないの、忘れられないのよ。恋しくて恋しくて、ご飯を食べる気にもなれないし、眠ることだってできないほどよ。せめてお手紙でもと思うのだけど、まさかこんなこと家族には頼めやしないし。東と西に別れてしまっては、もう会うことだってできないでしょう。私、あなたにお願いがあるのよ。いつか若様がまたこちらにいらしたら、きっと訪ね当てて、丁重におもてなししてさしあげて。そして、私の心のうちをお伝えしてちょうだい。楊果という下僕を連れておいでなのが、李の若様ですからね」

 こう六娘に語ってから二、三年も経たないうちに女は病床に臥せる身となった。その今際(いまわ)のきわに女は六娘を枕元に招いた。

「賎しい身分に生まれながら、李の若様のような方からお情けを受けたこと、私、片時も忘れたことはないのよ。若様のことをお慕いするあまり、病気にまでなってしまったわ。もう助からないこと自分でもわかるの。前に頼んだこと、よろしくね。もしも若様がこちらにいらしたら、私が最期まで若様のことをお慕いしていたこと、会うこともかなわないままお別れしなかったことを歎いていた、とお伝えしてちょうだい。そして、この家に一晩お泊めして。私は必ず若様の夢に現われますから」

 そう言い残して女は息を引き取ったのであった。


 章武は六娘に王の家の門を開けてもらった。そして、下僕に命じて薪や食べ物を買って来させて泊まる準備をした。寝台に褥(しとね)を敷いていると、どこからか女が一人現われた。女は箒(ほうき)を手に部屋を出て、表を掃き始めた。章武が六娘にたずねると、知らない、と言う。そこで、どこから来たのかとたずねたところ、

「この家の者です」

 と言う。さらに問いただすと、

「ここの亡くなった若奥様は若様のお情けの深さに感じ入り、是非、お目にかかりたい、と申しております。どうかお恐れにならないで下さい。そのために私はこうしてお伝えしにまいったのです」

「私がここへ来たのも、まさにそのためだ。幽明(ゆうめい)には境があるので、人はそれを恐れ、忌み嫌うという。しかし、今の私には恋しい思いの方が勝(まさ)っているのだ。一目会えるのなら、何も恐れはしない」

 章武がそう答えると、女はニッコリ笑って立ち去った。不思議なことにその姿は門にさしかかったところで消えた。章武は供物を整えて、女の名を何度も呼んでその魂を祭った。そして、食事をすませると、寝台に身を横たえた。


 二更(夜十時頃)頃、寝台の東南に置いた灯火が突然、すーっと暗くなった。このようなことが二、三度くり返された。章武はおそらく何か怪異の起こる前触れだろうと思い、下僕を呼んで灯りを部屋の東南の隅に移させた。続いて部屋の西北の隅からさらさらと音がして、人影が現われた。章武が目を凝らしていると、人影はだんだん近づいてきた。

 五、六歩のところまで近づいたところで、あの女であることがわかった。昔と少しも変わらなかったのだが、身のこなしがどことなくふわふわと軽く感じられた。

 章武は寝台から下りて、女の手を取り、胸に抱きしめた。

「私は家族のことも、親戚のこともすべて忘れてしまいましたわ。覚えているのはあなたのことだけです。あなたをお慕いする心だけは、生きている頃と少しも変わりはありませんのよ」

 女の声音は生前よりも軽く清らかに響いた。章武は女を強く抱きしめた。女の体は生きている頃と変わらなかった。

「明けの明星(みょうじょう)が出たら、私はすぐにも帰らなければなりません」

 女は何度もそう言っては、空の様子を見るよう頼んだ。そして、睦言(むつごと)の合間に、

「楊さんの奥さんによろしくお伝え下さい」

 と言うのであった。

「あの人がいなかったら、誰が私の思いをあなたに伝えてくれたことでしょう」

 五更(朝四時頃)を回った頃、

「帰れ」

 と、誰やら呼ぶ声が響いた。女は泣きながら寝台を下りた。章武と腕を組んでともに外へ出ると、空に広がる天の川を見上げてすすり泣いた。そして、部屋へ戻り、腰に下げた錦の嚢(ふくろ)を開くと、小さな物を取り出して章武に贈った。色は紺碧(こんぺき)で非常に固い。手触りは玉のように冷たく、小さな葉のような形をしていた。

 女は言った。

「これは靺鞨(まつかつ)の宝と申します。崑崙山の神仙の住まうところに産するもので、神仙といえどもなかなか手に入れられないものです。近頃、西岳(せいがく)で玉京夫人(ぎょくけいふじん)と遊んだ折、これを見かけました。とても気に入りましたので、うかがってみたところ、私に下さいました。その時、『洞天の神仙達はこれを一つ手に入れるごとに、誰もが誉(ほま)れに思うのですよ』とも教えてくれました。あなたは神仙の教えに深く帰依(きえ)している上に博学ですから、これをさしあげますのよ。大事になさって下さいね。人間界にはないものですから」

 そして、泣きながら章武の胸に身を投げかけた。

「これでお別れです。最後にもう一度、抱きしめて下さい」

 二人、抱き合ってしばらく泣いた。章武は白玉の簪(かんざし)を女に贈った。

「もう会うこともかなわないんだね」

「今まではお別れしても、また会うことができました。でも、今日、お別れしたら、黄泉路(よみじ)に隔てられて永遠に会うことはできません。何と悲しいことでしょう」

「きっといつかは、私の寿命が尽きたなら、また会うことができるだろう。それまで、どうしたら私の思いを君に伝えたらよいものか」

 女は章武から身を離して部屋の西北の隅に向かって歩き出したのだが、二、三歩行ったところで振り向いた。

「私のことを忘れないで。時々は私のことを思い出して下さい」

 女は立ちつくしたまま、涙にむせんでいた。しかし、東の空が明るくなってきたのを見ると、急ぎ足で部屋の隅へ向かった。そのまま、その体は壁に吸い込まれるように見えなくなった。後には消えかかった灯火が暗くゆらめいているだけであった。


 その後、章武は東平王の丞相(じょうしょう)府に出仕することとなった。折を見て、玉細工の職人を呼んで靺鞨の宝を見せた。職人は言った。

「このようなもの初めて見ました」

 細工ができるか、と問えば、

「知りもしない物を細工するのは遠慮させていただきます」

 と答えた。

 後に大梁(だいりょう、現河南省)へ出張した時、また職人を呼んで見せたところ、少しは知っていた。それで、もとの形を生かして、やどりぎの葉の形に磨かせた。以来、肌身離さず、大切に持ち歩いた。


 ある年、所用で長安へ赴いた。東の通りにさしかかった時、一人の胡人の僧侶が章武の馬に近づいてきた。僧侶は言った。

「あなたは懐に宝玉をお持ちですね。どうか、見せてはいただけまいか」

 章武は僧侶を人気のないところに連れて行くと、靺鞨の宝を取り出して見せた。僧侶は手に取ってしばらくながめた後、言った。

「これは天上の至宝(しほう)です。この世の物ではありません」

 章武はその後も華州を通る時には、必ず六娘を訪れて贈り物をした。それは今でも続いているという。

(唐『李章武伝』)